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〈哲学の森〉序言
哲学は、ある時どこかで突然始まったという見方があります。たとえばギリシアにおいて、あるいはブッダ以前のインドにおいて、という風にです。これは文明の哲学の開始としては、正しいと思います。その特徴は、本質や必然性を問いはじめたことです。これを一言で言えば、〈とは何か〉を問題にしはじめたことです。これは最後には、人間とはなにか、世界とはなにか、そして神様とはなにかという、だいたい三つの問いへとわかれます。わかれて、また合体します。最後の神様への問いは、神様自身はいてもいなくてもいいのです。しかし問いは、ともかくたてる必要があります。それは超越と哲学では言うのですが、超越は人間と世界をとりまき、限界づける役割をするので、それは全体の枠づけとして、必要なのです。
さて、これですべてでしょうか。どこかおかしくないでしょうか。
わたしたち人間は、この姿としては、だいたい二十万年前にこの世界に現れたことがわかっています。文明はその最後の時期、ながくとっても二万年くらいです(農耕牧畜が始まった時期とだいたい重なります)。では十分の一が文明として、十分の九の時代の、文明以前の人間は、哲学をしていなかったのでしょうか。本質や必然性や、〈とはなにか〉という問いを知らなかったのでしょうか。
わたしはそうではないと思います。人間は世界に生まれて、そして世界を越えたなにかを感じて生きていく存在です。それは実はクマやオオカミもそうですし、アホウドリやウミガメもそうです。ただ彼らは、世界や神様を、そして自分を感じて生きていく、しかしその感じをあらためて〈問い〉として立てることはしません。そこだけが人間とのちがいです。すると人間は文明以前にもその問いを立てていたに違いありません。ただその形式、問い方がちがっていたのだと思います。
その問いは、「わたしは、あるいは、わたしたちは、どこから来て、どこへ行くのだろう」という形式だったことが大体わかります。そう自分に問いかけながら、まず生活の場を探すことから始まりました。そしてその探索がそのまま、もっと大きな世界と超越への問いかけでもあったのです。
わたしはそれを一応、定位への問いと名づけます。自分はどこから来たのか、今どこにいるのか、そしてこれからどこへ向かうのかという問いかけです。
この定位への問いは、哲学の原点であり、それは文明哲学よりはるかに古いのです。そして文明哲学においても、それは地下水流のように豊かに脈々と流れ続けました。しかし、これが重要なのですが、文明はなぜか途中からこの問いを必要としなくなったのです。まだそれでも、〈とは何か〉の問いは、惰性のように続きます。お金とはなにか、国とはなにか、機械とはなにか、情報とはなにか。しかし人間と世界と神様(超越)への根本の問い、哲学本来の問いという地下水流は深く深くもぐって、見えなくなってしまいました。文明は、人間がどこから来てどこへ向かうのかを、もはや問題にしなくなりました。問題にしなくても、文明は文明だけでやっていけると思ったのでしょう。
そしてやっていけなくなりました。温暖化と種族的敵対と最終戦争の予感、それが現代文明の辿り着いた位置です。
そこでわたしは、哲学の原点にもどることにします。
わたしたちは、どこからきて、どこへ向かうのか。
こう問いかけて、わたしたちの先祖はアフリカ中に広がっていきました。山と砂漠と森と海を知りました。
そしてある時、その先に、あの暗い雪景色の森の先になにがあるのだろうと問いかけて、はげしい好奇心をかきたてられ、大きな大きな憧れとともに、世界中に広がっていきました。その結果として、いまわたしたちは、このすばらしい惑星、地球の住人となっています。
この大胆な、憧れに満ちた定位の問いの、その広がりを想起しつつ、その問いを忘れた文明がなにかおかしなところに迷いこんだいま、わたしは哲学の森の復興と、定位の問いの再興をめざして、この問いかけを再度、いまここで、はじめることにしました。
わたしたちはどこからきたのか、いまどこにいるのか、そしてこれからどこへむかうのか、その本質性、その必然性を、これからみなさんといっしょに考えていきたいと思います。
群馬山中にて、定位の自由の再興を願いつつ、著者しるす
2022年1月
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〈定位哲学講座〉序言
定位の問いかけは、本源的な問いかけで、それは生き物が世界に生まれてくると同時に感じる居心地のよさ、わるさと関係しているとわたしは思います。首をふらふらさせながら、おかあさんの羽毛の下にもぐりこもうとしているヒナを考えて下さい。びっくりして、ふらふらして、ほかほかして、そしてうとうとします。このぜんたいが哲学だといったら、みなさんはびっくりして、ふらふらして……はしないと思いますが、ともかくそうなのです。うとうとまでそうです。自分がいまどこにいるかがわかって、そしてここでいいと思えば、哲学もひとまずうとうとして、そしてあたりまえの生活にもどっていくからです。
これがつまり、わたしたちが生き物といっしょに、ずうっとこの二十万年やってきた、ほんとうの哲学です。それはほんとうの哲学ですが、いまは少し古いものとされてしまいました。それはやはり、別の面から見れば、わたしたちはヒナではなく、人間として、ある国に生まれてきて、住民票や銀行のカードもありますし、その外、すべてヒナの知らないこと、知らないでいいことに夢中になり、あくせくし、がっかりし、また夢中になっていきます。
これを文明環境と一応呼んでおきましょう。ではあのびっくりして、ふらふらして、ほかほかする、最初の哲学はここでは何の役にも立たないのでしょうか。
わたしはそうではないと思います。ヒナが文明を見たとしたら、やはり文明のほかほかした、ふわふわした、お母さんっぽい綿毛を探すと思います。探して見つからなければ、ピーピー悲しそうに泣き出すかもしれません。
この泣き出すこと、それがいまは特に大事なのです。
それはどうしてかというと、文明の中にいて、そのいろいろな部分にかまけているかぎり、わたしたちは生き物としての自分を忘れていくしくみになっているからです。だからこそ、ヒナとして、この世界に生まれたばかりの心で、複雑な、奇々怪々な文明と対面し、しんそこびっくりすることが必要なのです。
何にとってかというと、もちろん哲学にとってです。ヒナも哲学をしていたと言いました。そのヒナ-哲学を、一応わたし風に定位哲学と名づけるならば、この哲学のみが、文明を総体として問題にすることができるのです。
しかしそのためには、ヒナもいっしょうけんめい勉強しなければなりません。それはもうお母さんはどこかにいってしまって、そして冷たいぎらぎらしたものだけが周りを取り巻いている、そういう環境の中で、なおヒナであろうとすれば、やはり文明そのものを、文明の視点からではなく、ヒナの視点から勉強しなおす必要があるからです。
その勉強を、わたしはこれからみなさんと一緒にはじめたいと思います。
童心による異化、それが袋小路に陥った文明の迷路から抜け出す、唯一の方法であると、わたしはかたく信じています。
ヒナであるみなさんよりは、わたしはすこしだけふっくらしたお母さんにちかいかもしれません。ですから一列になって、安心してついてきて下さい。
これが定位哲学講座開講の辞です。あまり文明風でないのは、それがわたしの立場だからです。
文明の袋小路の先に、人類の本当の未来が待っていることを願いつつ、著者しるす
2022年1月
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