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考え合い、論じ合い、納得ゆくように
はじめに
今日は、学生のみなさんのまだ知らない電気通信大学の一面を紹介してみようと思います。それは今から45年前(1965年1月)、「電気通信大学教官は軍事研究をしない」と言う申し合わせを、そのときの先生方がしたことです。 恐らく皆さんのどの人も、まだ生まれてなかったころです。
この時期は研究室では教官と技官と学生の間の話合いが対等に行われ、低学年の学生たちの教官宅への訪問や、若手教官の学生寮への訪問も盛んに行われていたし、事務局では勤務のあとには、事務局長と平職員の懇談が日常的な光景であって、コミュニケイションに満ち、大学としての一体感があったころのお話です。
事のはじまりは、その前年(1964年)4月、電気通信大学に防衛庁技官が研究生として入ってきたことからでした。 学生の一部には早速「自衛官は帰れ」と数人でその自衛官のいる学内最北端の研究所の部屋へデモをかけることもありましたが、大部分の学生は様子眺めか、関心を示さない人たちでした。
そのとき....
第二次大戦が終わって19年が経っていました。私は終戦の年は大学の1年生で、遠く筑波や秩父や丹沢の見える見渡す限りの焼け野原の中で、なんと馬鹿なことをしたのだと言う思いと、これからどうやって生きていったらよいかをぼんやり考えて立っていたのを覚えています。
1946年の新憲法の制定の時は、毎日の生活でやっとだったのですが、それでも基本的人権とか、主権在民とかの言葉が非常に新鮮にせまってきて混乱のなかに未来が輝いていたような記憶があります。
憲法第九条の戦力の不保持と戦争の放棄は占領下だったので占領軍の御都合ではと、その世界史的意義や、積極的平和への役割など考えてもいなかったように思います。
朝鮮戦争と片面講和と日米安保条約は否応なしに、日本を米ソ対立の冷戦に組み入れ、再び戦争準備の軍備増強に傾斜し始めたことをひしひしと感じさせ、はじめて憲法の平和条項の意義に気がついたのでした。
戦争は嫌だという思いは、その年(1964、昭和39)の日本の9割位の世論だったのでしょうが、かなりの産業が朝鮮戦争の特需景気で持ち直したこともあり、生活も落ち着き、平和の擁護や日本国憲法の戦力の放棄のことなど気にかけなくなっていました。
電気通信大学ではその年、材料学科が作られ7学科291名入学になっていましたが、大学名がまだ知られていないため卒業生の就職は難しく、卒業時かなりの未就職者がいました。また学科によっては、専任の教授が全部欠員の所もありました。電気通信大学がはじめて防衛庁の働きかけを受けたのはこんな時期でした。
大学教職員は....
学生の運動は常に一過性で持続性が少ない特徴があります。「自衛官は帰れ」と言っていた学生のデモも数週間で消えてゆきました。
大学には教職員組合があります。皆さんは教室で授業の教員との触れ合いはあっても学生課や教務課以外の事務官や技官とは接触がないとおもいます。教員や職員が自主的に作っているのが教職員組合で、勤務の条件や生活の条件をよくするために委員を選出して運動しているのです。
1989年10月末全国80の国公立大学の組合が「全大教」という全国組織をつくりました。組合は学生たちの運動とは違って非常に地味ではありますが、粘り強く運動を続ける特徴があります。この当時は、教授、助教授、助手は勿論のこと、事務系でもすべての係長、課長補佐は組合員でした。
組合総会では....
組合総会は6月の沖縄忌(沖縄で日本軍が全滅し大勢の女子供がマブニの丘の絶壁から自決した日)に開かれました。
運動方針の説明で人文・社会の助教授でもあった委員長山上正太郎助教授は、
「軍事研究の問題が本学にも生じている。これはなかなか難しい事柄で、例えば個人的には軍事研究のつもりでなくても、政治的に利用される場合もあろうし、また専門的なことは専門外のものには理解できない面もある。 そこで、今、にわかにさわぎ立てて、個人的・感情的攻撃で組合員を分裂させるようなことは、したくない。この問題については組合員全体が真面目に真剣に考え合い、論じ合い、納得ゆくように進んで行きたい。 そしてつまる所、平和と社会の進歩のための学問・研究という誰もが異存ないであろう点 へ到達したい」と述べこれが組合の運動の基調となりました。
青年部では....
行動の中心は20才前後の独身者が集まっている青年部です。電通大青年部にも、「自衛官をすぐにしめ出せ」という意見は一部にありましたが、 大部分の青年男女の部員は「よくわからない」というので学習をすることにしました。
先ず青年部機関紙「わかくさ」が創刊され、部の行事や、横の連絡、部の主張などをもりこんで清新の風を吹き込みました。
そして平和と軍事研究や憲法について分科会を作り「大学と現代軍国主義」というパンフレットをNo1, No2とつくりながら地道に学習をおこないました。
青年部には、当初、軍事研究反対の方針をめぐってふたつの意見がありました。ひとつは前に述べた現にいる自衛官をただちにしめだすという、せっかちな行動に走る傾向、もうひとつは今後このようなケースを阻止する確実な体制を全学的に作り上げるという方針でした。
結局後者の意見が青年部では支持され学習会が続けられ、組合の中に軍研阻止委員会がつくられました。
8月の原水禁大会には初めて代表を送り出し、電通大の運動の報告を行いましたが、その月にトンキン湾事件、ベトナム北部への空爆、米議会の派兵承認とベトナム戦争がはじまりました。11月には原子力潜水艦寄港に反対する学習会を行い、反対の決議文を教官の手をかりずに青年部員だけで作るまでになりました。
組合員は全員公務員ですから、「日本国憲法をまもります」という誓約をしています。憲法九条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と書かれていて、この点を疑問の余地のないよう、よく学習していました。組合や青年部の活動は一人一人の組合員の心に訴えてその自覚を高めることで、委員長の基調報告の通りに無理な押し付けは避けていました。
防衛庁の動き....
学習会や軍権阻止委員会では、防衛庁の動きが分かってきました。自衛官に日常のお世話をする技官(青年部長大日方聡夫)から、自衛官は毎日午前10時と午後3時にどこかへ電話をかけ「本日、電通大異常ありません」と報告しているとか、M学科の職員から、防衛庁の研究所のO氏がいくつかの研究室を回っている、うちの先生(石井友二)は「O氏が防衛研修費を現金にして封筒に入れて配っているようだが、国家の費用を何に使ってもいいというのは、おかしい。私は受け取れない。」と言っていた、とか。C科の技官もO氏ならうちの研究室にもよく来ていると報告があり、この年度になって防衛庁は電通大に対しなみなみならぬ関心を持っていることを知らされたのでした。
しかし、実はこんなことは氷山の一角で、あとで明らかになるにつれ、その年度の防衛庁からの働きかけは、熾烈をきわめたものでした。驚いたことに当時教授が全員欠員だったA学科には、防衛庁からの教授への人事移転、また就職難で未就職の卒業生全員の防衛庁への就職保障、さらに今後毎年当時の金額で3000万円づつの特別研究費の交付などを条件に協力の申し出があったが、断ったとその学科の吉田教官から聞きました。
もしもこの案の通りに実現していたとすれば、A学科を中核に(またはA学科だけでも)文部省から防衛庁への移管も展望できる内容で、文部省の勢力範囲の縮小になり、事務当局もほっておけません。
また別の学科では防衛庁の職員を電通大の新任教官に推薦しているといっているとか、どこまでが事実で、どこからが単なる噂かは確かめようもないことでしたが、当時の電気通信大学が防衛庁にとって好餌であったことは間違いなかったと思われます。
学生は....
学生のなかには、当初ごく一部に自衛官を追い出そうとする動きがあったと述べましたが、多くの学生たちはそれについて行かず、組合の青年部と同様、多数はゆっくりと事態を見極める方についたのでした。
学生達が立ち上がったのは、防衛庁からの教官人事が事実であると確信してからでした。 一月中旬の月曜日の朝、栗林のあちこちの樹の枝に軍人教官反対と書いた半紙が風にふかれており、教室の各自の机には「防衛庁からの働きかけで近くある学科に軍人教官が赴任するかもしれない」とか、「防衛庁は電通大を取り込もうとしている」などの動きが書かれたビラがのっていました。また新聞部の部室の横には「軍事研究反対」の立て看板があったということです。
一時間目のC学科のK教授の授業で、机の上のビラを読んだK教授が「誰だ、これを書いたのは?」と大声で激しく怒り出しました。それを見た学生が一斉に教室から飛び出して「本当だあ、本当だあ」と言いながら各教室を回り、触れまわったのでほとんどの教室で授業は打ち切られ、あちこちに集まって討論がおこりました。それでも半信半疑だった多くの学生がはっきりと、これは大変だと感じたのは、騒ぎを聞きつけて駆け付けたC学科のT教授の話で「ここに書かれている教官人事のX君は私の親友で、決して君たちが心配しているような悪い人ではない、」と防衛庁職員のX氏の生まれから人となり研究業績などを詳しく説明したのです。黒山のように集まった学生たちや、あらたに集まった学生に分かるように何度も詳しく説明した結果、「防衛庁から電通大に教官が派遣されるというのは本当だ。」と学生たちは信じるようになりました。
最初の掲示は運動部の書いた「軍人教官反対」か「軍事研究反対」だけの一行の声明文でした。その日電通大始まって以来の学内デモ行進が最北端の研究所前から南端の正門まで行われました。数百人の学生の先頭には、その貴重な一枚の声明文を両手に開いて掲げ持った学生が歩いていました。
昼休みになると、当時の寮の食堂から緊急の握り飯がリヤカーで大量に運ばれ、寮生も通学生も一緒になって食べていました。事実上授業放棄となった学生たちはサークルやクラスに分かれて集まり、討議の結果を次つぎと声明文にします。文案を練るため、通学生も寮へ泊まり込み毎晩議論をつづけます。声明文は日を追って長文になり、一週間もすると、C棟(当時木造半二階建て)の屋根から土台まで全紙10枚位の長さに細かい字で書かれるようになります。内容も長さに応じて、はじめの「軍人教官反対」だけではもたなくなり、軍事研究反対や軍国主義反対の歴史や世界情勢を加えるなど、少しずつ冷静なキレイ事にかわってゆきました。そうした中で、学生と教官の話し合いもおこなわれました。ほとんどの教官はこのときまでこの「人事」を全く知りませんでした。
教授総会では....
1月27日、うち続く事実上の授業放棄に事態収拾のための教授総会(教授のほか助教授・講師も参加)
が開かれました。 何人かの発言の中でも戦争遺児であったC学科のY教官の「私の父は樺太の守備隊長として戦死しました。母は女手ひとりで私を育て大学院まで出してくれました。戦中・戦後の母の苦労は並大抵ではなかった。わたしは戦争には絶対反対だし、戦争のための軍隊から教官が来ることには反対です」という発言が印象的でした。その直後「もうこの人事は駄目だ」というささやきも聞かれました。Y教官は予定されたX氏が来るはずの講座の教官なのです。
また学生にX氏の説明を行ったT教授は「学生の反対などはどうということはないが一番こたえたのは、ずっと目をかけてきた研究室の若い技官から、先生にはいろいろ御世話になっていますが、このことだけはどうしても賛成できません。と涙を流して反対されたのには、まいった。」と発言し、職員の考えの反映と研究室内のコミュニケイションの深さが感ぜられました。
収拾策として、E学科の平島・遠藤・望月三教授の提案として、話し合った限り学生は教官人事反対でなく軍事研究反対であるからして、ここで「電気通信大学教官は軍事研究をしない」ことを申し合わせることが必要ではないかということが議題になりました。
三教授の一人はのちの学長、他のふたりの教授も別の学長選挙でそれぞれ最後まで候補に残られたくらいの人望のある方々だったので賛成者が多く、B学科の天沢教授の「防衛庁からは金を貰わない」ということを含んで申し合わせを決めることになりました。
教職員組合の委員長でもあった人文・社会の山上教官から「この決定は電通大の将来を決める重大なものですから、ぜひ採決をおねがいしたい」という提案を受け入れ、略式の挙手による採決で決めることになりました。
まずほとんどの人が手を上げ、残った二三の人も、しばらくするとゆっくり手を上げて、「満場一致です」と庶務係の職員が報告しました。これを学長から学生に報告すれば一気に沈静化するという一部の人々の思惑に反し、多くの学生は教官が学生たちの運動を支持して賛成したと受け止め、気勢が上がる一方、会見席上の学長の失言の連発(土建屋が古いビルを壊すのはダイナマイトを使うから軍事研究、防衛庁がコンピューターを研究するのは基礎研究だから平和研究)そして本音がちらり(軍事研究反対さえ守れば、防衛庁からの教官は受け入れられる)などで,折角の「申し合わせ」は思惑通りには働かず、授業放棄は続いたのでしたが、2月初旬の学年末試験週間にはいって学生運動は時間切れになります。
当時の学内世論の大勢は「軍人教官に反対」でした。また反対する軍事研究は(誰が)と(予算の出所)という客観的証拠が得られるresearch by the army, and for the armyであって,戦争や軍隊「を」研究する research of the armyは学問研究の自由の立場から反対の対象から外すのが討論を経た後の常識でした。
事務局上層部は....
本当の事態の収拾を考えていたのは、その当時の事務局の上層部のようでした。事務局長吉田勇は文部省職員組合の初代委員長でした。戦力の放棄をきめた「新しい憲法のはなし」を文部省が全国の学校に配ったころの文部省の、
です。
1月29日の組合青年部の「防衛庁からの教官は受け入れることはできません」という声明を受ける形で2月1日に組合委員会が開かれました。いつもは事務局の組合委員は欠席が多く1~2名なのにこの日は出席の大部分の10名近くが事務局の課長補佐や係長ばかりといえる中で、委員長は大学の自治との関連でしょうか、組合が教官人事に触れることにはかなり慎重でしたが、庶務課長補佐のリードと事務局の係長クラスの賛成の声で「今回の人事反対」を決めることになったのです。
声明:『本組合は総会で決まった「軍事研究反対」のスローガンを再確認します。 軍事研究とは軍隊が行う研究、軍隊のために行う研究をさすと考えます。さて本組合は今回の防衛庁よりの人事がこの「軍事研究」につながる危険性があり、これが既成事実となって軍事研究の場が築かれる恐れがあると考えます。したがってこれに反対します。』
当時は教授・助教授・講師のほぼ全員が組合員でしたからこの声明の影響の大きさは予想以上でしたし、委員長の慎重になる気持ちも理解できます。
その後は....
以後、電気通信大学には防衛庁からの委託研究も自衛官の派遣も教授総会の申し合わせにしたがって行われていないようです。嵐のような防衛庁からのさそいかけがあった年度は、国会で「三ツ矢作戦」などの自衛隊や防衛庁の軍事的性格が明らかになる2カ月前のこと、また東大の時計台占拠から全国的に広がった「大学紛争」の数年前のことです。電通大では、それまでは教官・学生・職員の間のコミュニケイションが盛んで、個々の意見の相違はあるとしても大学としての一体感がまだあった時期なのですが、やがて多人数教育と学生定員増による急激な膨張と「大学紛争」がそれらを吹き飛ばしてゆきます。この昭和40年早春の出来事は小さかった電通大の黎明期の最後のエピソードだったのです。(2008/11/3記1990版、学友会 群青第2号より転写、加筆)(2010/11/12 加筆)
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