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日本初期のレーザー分光も電通大から
電通大の黎明期に一般教育の化学ではNMR以外にもレーザー分光のはじまりをつくりあげた。東大・名古屋大でラマン分光やX線回折をすすめていた片山幹郎は50年代初めに電通大助手として赴任し米国に留学の帰路にコロラド大の水島正喬に会いルビーのレーザー発光を聞き帰国、電通大でルビーレーザーを初めて発振してトルエンに照射、トルエン分子のラマン現象を見つけレーザー分光化学の出発となった。
原石のルビーは米国で入手したとはいえ、結晶面での切り出し、金メッキ、電柱トランスほどの蓄電器の借受け等手探りでの苦労も多かった。
ルビーのレーザー用結晶ロッドをある光学機器メーカーから借り受けた片山は当時卒業研究生の青木禎(現、東京女子医大名誉教授)に手渡し、これでレーザーを完成させるように言い渡した。光励起のためのキセノンフラッシュランプやハウジングの手配は片山がやり、組み立てとエレクトロニクスの設計製作は青木がやった。片山ほか大勢の見物人の前でトリガーボタンを押すと、かなり大きな音響が部屋の中にとどろき、一同たいそう驚いたが赤い光線は現れなかった。ハウジングをあけて覗き込むと中には二つに折れたルビーロッドか転がっていた。青木が片山にそのことを告げると、片山は「オツ ホツ ホツ ホツ」と笑いだした。片山は、後日再びルビーロットを手渡し、これでやるように言った。それは前の頼りなさそうなものと違ってかなり太く長いもので、いかにも発振しそうに見えた。
当時D棟の1階でルビーレーザーを発振すると全館中に轟音が轟いた。D棟まえの道路(メインストリート)を歩く学生もその音に驚き、建物内にはいってきたくらいである。その後も実験は続き、音は徐々に小さくなり、炭酸ガスレーザーの実験では墨ヲ塗ったゴム風船に照射して破裂させ、みんなをよろこばせた(中川直哉 談)。
片山はルビーレーザーを使ってトルエンのラマンスペクトルを測定し、レーザー発振スペクトルにR1、R2線と呼ばれる構造をみとめて、片山が学会の講演会で発表した。講演を聴いた一同は当時知れていた値の2倍の間隔のR1,R2線については懐疑的で質疑応答はエキサイトしたものであったと、戻ってきた片山は青木に話していた(日本物理学会講演会 昭和39年4月1日 講演番号1pB2、および昭和39年10月7日 講演番号 1pB2)。
片山はその2,3年後東大に移り、その片山研から炭酸ガスレーザーを使った音響分光の分野で多くの研究者を輩出した。その片山研の隣にその後電通大の教授となった本郷の物理工学科から移ってきた宅間宏の宅間研があり、重成武と伊東敏雄はその研究室の助手を務めていた。(2008/10/31)
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