|
電気通信大学の黎明期
第7展示室 友の会 編
序:電気通信大学の黎明期の研究
1949年5月電気通信大学(電通大)が発足しました。この展示室は本大学の黎明期の10数年間の歴史のいくつかを取り上げて展示しています。
世界最初のプリント配線の回路
大学ができる時校舎・図書や教官・職員は前身校の無線講習所からも引き継ぎ、その歴史も受け継ぎました。無線講習所の出身で母校の教官であった大岡茂教授は民間企業にいたころの会社の仕事として、1935年(昭和10年)ころ、当時の西欧世界より数年早く、最初のプリント配線を考案してラジオを組立てる技術をつくって実用化していましたし、大学になってから船舶の航行をロランという送信所の電波を使って自動的に行う研究を実際に船舶が使えるシステムを作るところまで完成しています。(電気通信大学学報参照)
自由闊達な雰囲気
1950年代から1960年代という時期は、第二次世界大戦が終わり、いわば閉じ込められた雪がとけ一斉に花開く春、という開放感と未来への期待に満ちていた時代で、科学技術史のうえでも20世紀後半のいろいろな発見や発明の種が芽を出した時期です。
その後の時代はどちらかといえば、枝葉が広がった時代という見方ができます。
日本の旧帝国大学では当時名古屋大学など一部を除き、多くは従来の講座制の殻がまだ深く残っていて、わけへだてのない自由闊達な雰囲気が少なかったころと思われていますが、できたばかりの電通大には比較的上下の隔たりのない自由さがあったものと思われます。初代学長寺澤 寛一は第二次大戦中の東大理学部長でもあり、将来の学問の進め方に、深い見識を持っておられ、基礎的な研究を援助する環境があったと思われます。
技官や卒研生のネットワーク
電通大の黎明期の研究の特徴のひとつは技官や卒研生のネットワークの深さです。どこの研究室に何があるか、誰がどんな新しい装置を買ったか、がすぐに分かるのです。教官同士ではごく限られた範囲にしか及ばない情報網も技官レベルでは全学におよびます。
さらにNMRの林昭一さんのように、当時の助手・技官・卒研生の技術レベルは非常に高かったとおもいます。それはその当時の卒業生が数々の困難を乗り越え、その後国内外で大きな成果をあげ、電通大の名を高めたことからもわかります。
大学の研究
電気や通信技術の大学なのになぜ物理や化学の基礎の話から始めるのか、と思われるかも知れませんが、大学の研究というのはすぐに役に立つ研究も大切ですが、その基礎になる新しい原理を発見したり、より深い真理を見つけることが優れた研究であり、実はその基礎研究が10年後、数十年後のより広い実用につながるという経験をもっています。
電通大では主に付属の研究施設や一般教育で、物理や化学で後々頻繁に利用される量子力学の応用研究や、たとえば音声や文字についての研究など、将来の情報技術のより深い基礎的な研究や、国外や学外電算機の使用が始められていました。
開学直後、サイバネテックスの提唱者、R・イーナーを招いて多くの教官と懇談するなど50~60年後に学科や学部になる情報科学への動きが黎明期から始まっていたのです。
その基礎研究の一つが開学の年から始まった核磁気共鳴(NMR)の研究でした(NN)。
|
|