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星間空間実験装置
世界初と言えば逆ファラデイ効果という光子の角運動量で光の進行方向に磁場を作る現象も、電通大で発見された。最初の発案は1950年代後半の技術員たちの輪講で電磁波の光子の角運動量は測定可能か?という技官たちの問いからである。 電子工学の平島・新谷らと応用電子の芳野赳夫、短大の林龍夫の援助と材料学科の林敬三、一般教育化学の斎藤栴郎はじめ多くの技官のネットワークの協力や伊藤太郎・須田信弘などの卒研生の工夫で実験が行われ、伊藤の命名でYadaraf効果と呼ばれていた。光の角運動量が電子の角運動量に移り磁場になる現象である。本学の技官たちのネットワークの厚みと技官たちが教官を動かす能力の優秀さを表す例のひとつである。
ハーバード大学のファンデールチールが第1回量子エレクトロニクス国際会議の冒頭講演でInverse Faraday効果として発表する数年前のことであった。こうした世界初の実験装置は本学にいくつもあることであろうが、次に述べる星間空間実験装置は装置の発想の独創性や結果の国際的評価の確立などで、是非黎明期の研究にのらせるべきものと考える。
1970年代の星間分子の発見は、占星術と錬金術の中世以来と言われるほどに天文学と化学の結びつけを強めた。宇宙化学と呼ばれるこの新しい分野の星間物質のシミュレーション合成では世界でも日本でも電気通信大学がトップを切っていたのである。その装置がこれである。
日本の電波天文学の目覚ましい進歩は20数年前の宇電懇グループの発足以来多くの若手研究者を育ててきたことにあるが、そのなかで若くして惜しまれて亡くなった2人の研究者は共に星間物質の特に星間分子の研究の先覚者であった。井口哲夫と鈴木博子である。井口が東大天文学科の博士後期1年の時(1971年)本学の研究者の集まりで星間分子発見の講演をしたのが始まりで、翌72年応用電子科修士の村上仁と一般教育の坂田朗、中川の4人が、公務員宿舎のRD棟の坂田家の一室に集まり、アンモニア、水、一酸化炭素、シアン化水素等の星間分子の生成機構の研究グループを作ることになった。井口は修士まで横浜国大で量子化学を専攻し、村上は電波工学、坂田は地球化学、中川はイカの神経のパルス伝導に興味をもっていたが、井口の提案に従い星間分子のエネルギー計算と、分子生成機構のシミュレーション計算と星間空間での分子生成シミュレーション実験を行うことになり、分担をきめた。
計算は72年前半は本学の沖電気の大型(?)電算機でテープ穿孔して行った。分子のエネルギー計算もCNDO法が新しかった。また、星間紫外線・赤外線吸収を、組成の分かった幾つかの物質の紫外線・赤外線スペクトルの重ね合わせと比較し、物質の推定も行った。星間空間実験装置は坂田の担当で試作2号まで作っていたが、極低温の水素原子気体を作るところで難関に当たった。原子にするには高温にせねばならない。低温で濃縮すれば原子は分子になってしまう。希薄にして低温にするにはと、相談にのった電子工学の平島正喜がブラウン管内の反応にして観察するためガラス細工まで手伝った。当時小金井の電波研の緑川も濃縮水素原子を作ろうと巨大な高真空槽を計画していたので平島と同行して見学に行ったが、結局濃縮低温水素原子は英国で1981年電子スピンを揃えた水素原子気体の濃縮に成功するまで世界で誰も作れなかった。
坂田は希薄な気体の硝子容器を自宅の当時まだ珍しかった電子レンジに入れて加熱したところ、容器内だけが放電することを見つけ早速、無電極放電で気体のプラズマを作ることになった。電子工学の新谷らの助けで10cm幅の導波管の最も電圧の強い部分にプラズマ発生管がくる方式になり、真空系と低温系を含め設計全体は研究施設の森崎弘の意見で当時最新の質量分光や液体窒素温度のクライオミニを使う方式をとり、真空は2段にし、高真空部に四極子質量計をつけた。真空装置に不慣れなため何度も失敗を繰り返した。真空オイルの選択の甘さが後まで影響した。装置の完成まで新谷・森崎の寄与は大きかった。
今でも話題の全天空の星間紫外線220nmの吸収の物質はこの装置の試運転の段階で検出した物だし、特異な星間物質と言われる炭素が一直線に並んだポリイン物質もこの装置で見つかった。C60でノーベル賞をもらったクロトーが星間分子のシミュレイションでポリインの直線分子を作ったのはその10年後である。
予算はなかった。というより、今やらねば1年後では立遅れると借金で走りだしていた。約400万円の予算だが、講座費は講師と助手の研究費全額合わせても百万円に足りず、残りは2人は院生だった。それでも装置や資材は会計課の配慮で借金できた。
星間分子研究で指導的だった井口は博士課程卒業直後、数カ月で骨肉腫で亡くなった。結婚したばかりであった。学位論文は「星間分子の生成機構」であった。村上は修士修了後電気メーカーに就職したがしばらくして退職して重力波検出の東大平川研の無給研究生を数年続け、その後郷里に戻った。
坂田は1977年の「生命の起源と進化」の国際会議以来国外講演が続いた。このとき来日したオパーリンは坂田たちの装置と天文台のミリ波望遠鏡を見学し、生命の起原研究に星間分子などの天文学の成果が必要だと講演した。坂田が国外に講演した中でも79年のモントリオールの国際天文学会の星間分子シンポジウムでの講演は星間分子研究に実験室でのシミュレーションが必要だということを認識させた画期的なものであった。このシンポジウムに鈴木博子は初めての国際会議に出席し、以後交通事故による死亡までの10年間、彼女の星間分子研究組織者としての精力的活動の始まりとなった。
この時期、電波天文学が新しい星間分子の発見を目指しマイクロ波分光に傾斜する中で電通大の坂田と和田節子は星間塵の構造と生成に研究課題を移しこの装置を使って実験した。組成の分かった物質のプラズマ放電による生成物の分析と固体星間物質の同定を行う手法である。それにこの装置が役立った。実際に物質を押さえられるし、紫外線・赤外線スペクトル分析は電通大の学生化学実験の題目でもあるという本学の一般教育化学の利点が生かせたのである。得られた物質のスペクトルは日本やハワイ大の赤外線天文学者と共同につかわれた。この実験装置は今年度末には、新しくできる一般教養研究棟に移設されることになる模様である。(1992年記)
[追記]
星間実験装置の中心的研究者 坂田 朗は鈴木博子、井口哲夫の後を追うごとく、1995年5月19日に逝去する。上記の記録を書いた2年後である。それまでの数年間の各種国際会議での坂田の活躍は目覚ましいものであり、ハワイ大の赤外線観測と共同して固体の星間物質のシミュレイション合成による同定という新たな研究方法を確立していった。
その後一般教育棟に移った星間実験装置は和田節子が同じ方法で国内外の研究者と共同研究を続け、和田の定年退職後(2008)は本郷の東大理学部天文教室に移されて活用されている。そして数年後には電通大歴史資料館に戻ってくることになっている。
坂田は53歳で亡くなる直前まで、学内では助手であった。(2008/10記)
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