最初の晩の宿泊地、オレンジ・ウォークでは、「ホテル・ミ・アモール」という凄い名前のホテルに泊まったが、ここで小さな事件が3つ起ることになる。
一つは、空港前のレンタカー屋で部屋を予約する際、店の女性の求めに応じてサインした「クレジットカード」の件が ホテルには全然通じてなく、フロントではあくまでキャッシュだという。レンタカー屋がホテルの代理をかねているものとすっかり信じ切った自分が悪かったわけであるが、なんとなく合点のゆかない門出となってしまった。ベリーズでは、まだこの種のことがよくあるから注意しろ、ということだった。
第2の事件は、「部屋の鍵」である。フロントでやりあったあげくやっと手にした部屋の鍵であったが、その鍵が当の部屋の鍵穴の中でいとも簡単に折れ曲がってしまった。もちろん、「この鍵は何だ」と抗議したが、それを聞いて怒ったのは逆にホテルの支配人だった。私が「9」と読んだ鍵の番号が、実は「6」であり、「折れてしまったのは、違う部屋で無理に鍵を回して折ったのだから、今すぐ5ドルを弁償しろ」というのである。私は「そんな筈はない。こんなに簡単に折れてしまったのは、はじめからヒビが入っていたに違いない」と主張したが駄目だった。普通、ホテルの鍵といえばたいてい真鋳で出来ている。だから、ちょっとひねった程度ではめったやたらに折れるわけはないわけであるが、ベリーズでは、真鋳が高いために鍵もアルミでできている。だから、ていねいに扱わないと簡単に折れてしまうのだという。これからは、ホテルの鍵にも注意しなけらばならない。
第3の事件は、「ディスコ」である。長旅で疲れていたためにその晩は街の散歩にも出ず、近くのベリーズ風中華料理屋で夕食をとっただけで早々と床についた。ところが、ようやく眠りにつきそうになった10時頃である。私の部屋の真下のディスコが、急に騒がしくなり、「ッドン、ッドン」というあの裏打ちのリズムがもろに頭の下から響いてきた。とんでもないホテルだが、まあ12時もすれば鳴り止むだろうと、その時はまだリズムを楽しむ余裕さえあった。ところが、真夜中を過ぎても、1時、2時、3時をまわっても止むどころか、今度は、そのリズムに混じって若い男女の叫声も混じりだした。おかげでその夜はほとんど一睡ももせずに、サンタ・リタに向かう朝を迎えるはめになった。関先生の方はどうだったかと聞くと、「いや、別に何でもなかったですよ」という。中南米では、大抵こんなもので、ホテルにはディスコがつきもの。そして、若者たちには、またとないエネルギーの発散場所でもあるのだという。
そんなわけで、2日目の朝は少なくとも快調というわけではなかったが、とにかく予定通り、第2の目的地、サンタ・リタ遺跡とセロス遺跡の拠点、コロサルへと向かった。オレンジ畑やサトウキビ畑、あるいは牧場など、街を出ると、その先の国道沿いには、熱帯雨林地帯とは思えない広々とした農園が拡がっていた。
セロス遺跡にゆくには、コロサル湾の対岸までボートで渡らなくてはならない。その場合、コロサルに着いたらまずどこかのホテルできけ、とガイド・ブックには書かれていた。コロサルは、コロサル湾に面した人口1万人ほどの小さな町である。町に入ったところで "Hotel Maya" という看板が眼についたので、とりあえずそこで尋ねててみることにした。すると、ボートのオーナーは、ロイといい、今、市場にいる筈だからそこへ行ってみろという。市場とは、ホテルからも見えるあの海沿いに密集するバラック建ての一画である。そこで捜しあてたロイは、真っ黒に日焼けした30代の小男で、もちろん、喜んで舟を出すという。ついでにサンタ・リタの遺跡についても尋ねると、「遺跡は車なら5分もかからない場所だから、セロスに渡る前にまずそこを案内しよう」ということになった。
サンタ・リタの遺跡は、市場からメキシコ国境に向かう国道に出てすぐ右手の道路沿いにあった。街中のわずかに小さな遺構を残すにすぎない遺跡ではあったが、住居神殿としての構造がおもしろい。遺跡にはガイドが一人いて、例えば、コロンブスが初めては遭遇したマヤ人は、この付近の集落から船を出したのだとか、あのスペインの征服者モンテホは、この部屋に住んでいた、等々そのひとつひとつをつぶさに案内してくれる。サンタ・リタ・コロサルは、対岸のセロスとも密接な関係があったらしい。神殿の屋上から海上を見渡すと、セロスは、計ったようにサンタ・リタの真東に位置していた。
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