マヤ神殿
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(1995年9月)
フォトギャラリー
プウク・マヤ遺跡
ベリーズのマヤ遺跡
マヤ文献
CD−ROM
『マヤ神殿とその壁面装飾』
第1巻(プウク篇)
第2巻(ベリーズ篇)
第3巻(ペテン篇)
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カバー遺跡
Kabah(AD600-1000), Yucatan, Mexico
(下の写真をクリックするとフォトギャラリーへ行けます.)
ウシュマルからルート261号線を約70キロメートルほど南に下るとカバーの遺跡に着く。カバーもウシュマルと同じく7世紀初頭から建設が開始された神殿都市のひとつであるが、11世紀のはじめ頃には、完全に住民から放棄されてしまったと推定されている。放棄あるいは崩壊の原因としては、トルテカの侵入後、強制的に住民が移住させられたためとの説があるが、その真偽は定かではない。
最盛期のカバーには、かなり広域にわたって神殿や住居が建てられていたようであるが、不完全ながら現在復元されているのは、コッツ・ポープや二層の宮殿と呼ばれる建築物だけで他はほとんどジャングルに埋もれたままである。その中にはウシュマルとも結ばれていたと推定されているサクベと呼ばれる古道やアーチの跡も残されており、当時の交易あるいは神殿都市間の政治的関係を知る上で興味深い。
察するに、マヤ社会は、古来、絶えずメキシコ地方からの人や文化の流れを受け入れながら発展してきた混合社会ではあったが、その基調となる精神は一貫して平和的であった。そして、時折やってきた外来人たちもやがてはそうした精神風土に同化し、マヤの各部族は、何故か帝国主義的な野心を抱くことなく、ゆるやかな連携を保持しつつ各地にそれぞれ独自の集落あるいは神殿都市を形成していった。しかし、こうした平和主義者たちも、やがては西方の帝国主義者たちの前に、ひとたまりもなくその主権を譲り渡すことになる。
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