マヤ神殿
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マヤからの報告1(深沢)
フロリダ〜ユカタン半島へ
(1994年8月)
北ベリーズ〜グアテマラ
(1995年3月)
コパン〜南ベリーズへ(準備中)
(1995年9月)
マヤからの報告2(由紀)
ホンデュラス〜南ベリーズ
(1995年9月)
フォトギャラリー
プウク・マヤ遺跡
ベリーズのマヤ遺跡
マヤ文献
CD−ROM
『マヤ神殿とその壁面装飾』
第1巻(プウク篇)
第2巻(ベリーズ篇)
第3巻(ペテン篇)
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Photo Gallery
チチェン・イツァー遺跡(Chichen Itza Ruins)
カラコル(かたつむり)
別名、"天文台"とも呼ばれるこの建物を"カラコル(かたつむり)"と名付けたのは、1841年、アメリカの外交官J・L・スティーヴンズで、彼が画家のフレデリック・キャザウッドと共に初めてこの地を訪れた時、その朽ち果てた建物の内部に、螺旋状の細い階段を発見したからであったという。その螺旋階段の先は小さなまるい部屋になっており、その円周にそって小さな窓が幾つか開けられている。このカラコルが、天文台とも呼ばれるのは、昔、マヤの神官たちがそれらの窓を天体観測のために使っていたのではないかと推察されたからであった。事実、春分(3月21日)と秋分(9月22日)の日没には、西窓外側南西の角の影が正確に内側の角に落ち、春分の日の月が沈む際には、外側北東の角の影が、おなじく内側の角に落ちるなどの事例が実測されている。
古代人にとって天体の運行は、政治的にも経済的にも最も重要な要素であり、マヤ人が、その観測に優れていたことは、彼らが独自に創造した極めて正確な暦法からも推察される。
カスティーヨ(城砦)
ピラミッド風のこの巨大建築をかつて"カスティーヨ(城砦)"と名付けたのは、ユカタン半島の征服者フランシスコ・デ・モンテホで、1527年、彼がその部下を引き連れて初めてこの地を訪れた時であるといわれる。一方、初代ユカタン司教ディエゴ・デ・ランダは、当時、その土地の原住民から「この巨大建築は、その昔、大勢の部下を従えてユカタンにやってきたククルカンという髭をはやした人物を祭ったものだ」という話を聞き、"ククルカンの神殿"とその建造物を名付けた。ククルカンは、古代メソアメリカの神話にあっては、各地に共通した最も権威ある神格ケツァルコアトルのマヤ化した呼称で、しばしば、実在の人物とも符合され、しばしば羽毛の蛇として現れる。このククルカンの神殿の正面階段両側にも、大地を呑み込むような長大な羽毛の蛇が浮き彫りにされており、その胴体に沿って波型に浮かび上がる春分秋分の日の光と影の現象は特に有名である。
戦士の神殿
この神殿が"戦士の神殿"と呼ばれるようになったのは、1924年、シルバヌス・G・モーレイとイール・H・モーリスの指揮のもとに復元が開始された際、神殿西正面前や南側の基檀で発見された角柱の四面全てに羽飾りをかぶった人物像が浮き彫りにされており、しかも、その大半が槍を携えていたためであったといわれる。
正面階段を登りつめた両脇には、蛇の頭と旗手と名付けられた人物像の石彫が見える。その先の神殿最上階は2つの部屋に分かれており、そこには、手前から、チャク・モールと呼ばれる寝そべった形をした偶像、戦士の刻まれた角柱群、通称アトランテの祭壇などが配置されている。チャクモールは、その腹の上に皿状の器を手で支えているように見えるが、それは、宗教的な儀式の際に香炉、あるいは捧げ物を置く台として用いられていたのではないかと推察されている。チチェン・イツァーでは、これと同じ形式の偶像が他に13個も発見されているといわれるが、そのどれもが寝そべった形をしており、それは、明らかにトゥーラの影響を示すものだとされている。戦士の神殿には、このように、トゥーラの要素が多く見い出されるが、同時に、側壁などにはプウク様式の雨の神チャクの石彫も数多く配されており、トルテカとマヤの混合形態を示す顕著な例として興味深い。
千柱の間
戦士の神殿は、その西正面と南側が、おびただしい数の角柱や円柱で囲まれているために、"千柱の神殿"と呼ばれることもある。ここでは、その南側の円柱群を指して千柱の間とする。
ジャガーの神殿と球技場
この神殿が、ジャガーの神殿と呼ばれるようになったのは、その周囲の壁に30余のジャガーの姿が刻まれていたからである。中央入り口の方形の屋根は、2本の角柱で支えられており、その間に配置されている石彫もジャガーである。その内部の壁には、トルテカ族のマヤ征服を描いた光景が壁画として残されている。神殿裏側の広場は球技場跡である。当時、そこでどんな球技が競われていたかは、未だ定かではないが、この球技場の壁には、当時の競技の情景を伝えるものとして浮き彫りがひとつ残されており、そこには、肩あてや膝あて、あるいは短めのバットにも見える棒状のものなどいろいろな道具を身につけた競技者たちがそれぞれ7名ずつ、どくろのボールの左右に相対している姿が描かれている。奇妙なのは、どくろのボールの左右に刻まれた二人で、左の競技者は、右手に短刀、左手には血のしたたり落ちる人の首を下げており、肩膝をついた右の競技者には首がなく、そこからは6条の蛇と化した血が噴き出ている。この浮き彫りから、この球技では、負けたチームの主将が首をはねられたとか、その反対に勝ったチームの主将が首を差し出す栄誉を授かったとか、いや実際には、ただ象徴的にその種の演技をしただけだとか異論が絶えない。競技のルールについては、競技場の左右の壁に石造りの輪がかけられており、一定の大きさのゴムボールをその輪に通すことによって勝敗が決められたというのが通説になっている。しかし、そこで、競技者たちが手を使うことを許されていたのか、あるいは、バットのような道具が用いられたのかは定かではない。古代メソアメリカには、この種の球技が、どこの地方でも行われており、競技自体に宗教的な意味もこめられていたという説もある。
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