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「ある軌跡」特別寄稿:
自分が欲しいものを創る
竹内幸一(S44E卒、ソニー株式会社OB)
本稿は、電通大OBの竹内幸一氏が2004年3月10日、「電気通信大学ものつくり教育講演会」で行った講演の予稿を「ある軌跡」の一つとしてまとめたものです。電通大黎明期に学んだOBたちのものづくりの足跡のひとつとして一読していただければと思います(編者)。
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- 産業の空洞化:100円ショップ。衣料品、電気製品も生産は韓国、台湾、中国に。
- 技術の空洞化:設計は外注さんまかせ。お金で解決。アナログが判らない。回路図が読めない。
- 好奇心の空洞化:開拓者(創業者)スピリットが無くなってきた。失敗を敬遠する。本当の新商品が出なくなった。
お金お金の時代。売れている商品に集中しすぎる。携帯電話、DVD、パソコンは価格ダウンで利益が薄くなった。何か日本がおかしい、そんな事が感ぜられる昨今、物つくりが楽しめた頃のお話しです。
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電通大に入学する。授業が終わると皆がすぐ帰ってしまう。休講があると喜ぶ学生。
物足りなさを感じて4年の卒業研究を待たずに2年次から角田稔先生の研究室に入る。
漱石の三四郎のイメージが大学だった。3年間研究室に居て学生を謳歌。何か判らない現象、電子スピン共鳴だとか核磁気共鳴だとかのデータを取る測定器作りです。ESR は強い磁場でマイクロ波のクライストロンを使った装置。NMR は高周波送受信機のような装置。中学時代からの趣味のマイクロ波実験の延長が楽しめた。その原理が現在、病院のMRI 断層写真です。
角田すみた先生と一緒におられた、電子工学の岡村史郎先生はNECに居た方で、テープレコーダーのアジマス記録を発明されたアイデアマン。光の進行波管もチャレンジされていました。その助手さんが品のある美しい方で、惹かれて研究室に入る。女子学生が居なかった頃の電通大です。
おうような時代で、上の学年の授業も受けられた。授業を受けて居なかった科目も試験の答案用紙に履修申告を貼り付けて、点数さえ良ければ通った。先輩のノートのお陰で3年で卒業単位を獲得。
高校中学は開成学園で物理クラブ。技術の凄い先輩ばかりでSSBの送受信機やVHFの送信機を奇麗に作っていました。私は部室を我が部屋とし、物理教室の手伝いもしていた。4日間徹夜で作った144メガの通信機で富士山頂から電波を出した。無線雑誌の製作記事も書いていた。
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トリニトロンを発表した頃のソニーに入る
4年生の夏にソニー研究部に呼ばれてアルバイト。それは他の会社に行かない為の足留めでした。その研究部3課に入社。20人の精鋭組織。工場実習、販売実習を終えて、泊まり掛けの新人歓迎会の次の日、急に組織が解散。竹内は先輩2人とヨーロッパ方式のトリニトロンを開発していて、そのままテレビ開発部に移り試作を完成。ところが、テレフンケンがPALテレビ方式のパテントを売ってくれないのでヨーロッパ向けテレビは、しばらく中止。
次にテレビのステレオ音声放送が始まるための機器開発を行った。真夜中に実験放送があるため徹夜残業が月に200時間。今度はいつ家に帰れるかと言う毎日。その生産も始まり、次はテレビのチューナー部分を開発となったとき、その担当10人の中で電通大先輩が5人。10センチ掛ける15センチのプリント基板が領域の仕事でした。
そこで研究部が解散して独りぼっちになった課長さん、島田聰さんの所に戻る事にしました。
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日本最初のトランジスターを創った物語の立役者、岩間和夫専務付きになる
ソニーも2万人という会社になったから、何人かは遊んでいて、次の種を見つけなければいけないというミッションです。課長さん一人、ひら一人の開発グループです。所属は専務室。
岩間専務さんはアメリカでのビジネスを定着させ、CCD撮像素子も完成させ、ソニー社長になられたが、残念ながら途中で亡くなられました。
島田聰さんはソニーの8インチ、最初の白黒テレビやクロマトロンカラーテレビを完成させた有名アイデアマンで学生の頃も発明少年。雑誌にテレビの製作記事も書いていました。
*竹内はカセットテレコのイヤホーンoutにアンプをつないだら、あれっと思う位良い音がした。角砂糖サイズのFM送信機を付けて電波を飛ばし、大きなステレオ装置で受信したら、カセットでもこんなに音が良いとなり、しかも、手元でカセットも交換出来るし音量も調整できるとなり商品化になった。 スピーカーの大音量で聴くワイアレスウォークマンです。次にそれがラジカセやラジオに内臓されて「君の声が空を飛ぶ」というキャッチ
フレーズで新商品になりヒット商品になる。
*短波ラジオの選曲ダイヤルを簡単なメカでダブルスピード微調チューニングが出来る様に提案したことで、若者向け実用的短波ラジオが安く出来た。海外の短波放送を聴こうというキャンぺーンで、短波受信「スカイセンサーラジオブーム」になり大ヒット。丁度ラジオが各家庭に普及してしまって売れなくなって来たという時代でしたが、若者が買い始めて、ラジオ部は復活し鼻高々のセクションになった。松下はワールドゾーンと言う名称で1年後に出してきた。
*FMをステレオ電波で飛ばせるステレオワイヤレスマイクも創る。アンテナコードの無いワイヤレスマイクも初商品。
*大賀さんの個人的商品プランナー、斎藤たかひこ嘱託さんが創ったカセット録音機「MEMO」に小型ラジオを組み込み超小型ラジカセを試作。斎藤さんの創ったステレオポータブルカセットデッキにFMステレオ送信機を内臓させて、お手元メディアの第1号機。暮らしの手帖、花森安治さんにそれらを観てもらった。それから20年後も、赤外線発光ダイオードにして光で飛ばせる8ミリビデオカメラにした。
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どうして昔は商品化に結びついたか
その頃は商品企画屋さんというのが居ませんで、エンジニア自身で次の商品を考えていた。ラジオやテレコの部長さんもアイデアマン。だから同じ目線で、ブラブラ社員からの提案も波長が合って受け入れられ大ヒット。小さい会社だから自分たち自身が欲しくて使う物を創っていた。
小さいラジカセなのに広がりのある音がするMSステレオも良いデザインとともにヒット。電通大岡村先生からの軍用トランシーバーをデザインヒントに作ったリトルジョンというトランシーバーもヒット。専務室の隣がデザインセンターだった、連携プレーでデザイン的にも新商品になる。
我々二人の部屋には通産省のお金で買った立派なオシロスコープ以外は測定器が無かったので、よそから発振機を借りてきてテープレコーダーに「今4kHzです」とか入れて信号源にしたり、手作りで低周波発振機も作った。
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世界初の家庭用ビデオプロジェクターを創った
さらに、入社時、研究部で一緒だった元三菱電機商品研究所のアイデアマン、氷室さんを私が呼び戻した。研究部ではカメラの撮像管1本だけを使い赤、青、緑の3色のフィルターの回転円盤で順番に撮影するカラーテレビカメラ「カラカラ・カメラ」を試作されていた。後にアポロが月で撮影したカメラも同じ形式だった。
ある夏の夕方、実験室の明かりが消えていて、トリニトロンテレビ1台しか点いて居ない部屋で、結構、白い壁が明るかった。部屋にあったフレネルレンズを試しにテレビの前に置いたら壁にテレビの像が逆さまに映った。それならと講堂に行って舞台用の大きなスポットライトのレンズを外して来て試したら、もっと画が映るようになりました。これがビデオプロジェクターの誕生でした。上司からは壁に暗く映るだけのそれだけのものと言われ反対されましたが、たまたま井深さんが見て「これはうまく行きそうだね島田君」と言われて180度向きが変わってGOとなりました。
井深さんは毎週どうなったかなと訪問してきました。盛田さんは家からクロマトロンのポータブルテレビを持ってきて「これにレンズを付けてみてみなさい」と言われ、奥様からは「家の遮光カーテンの裏地が銀色だから、スクリーンに使えないかしら」と提案された。盛田さんはアメリカ3Mの会長さんからスクリーンになりそうなものを取り寄せたりトップの家族まで開発屋さんになりました。
スクリーンは透過型のスクリーンを試したり、銀色のスプレーで反射型スクリーンを作ったり、ビーズスクリーンの狭い指向性の物で反射ゲインを稼いだりしていた中で、コダックの「エクタライトスクリーン」が反射率が高いという記事が入りました。3万円くらいのスクリーンだったのですが上司からはお金が出ない。第2開発部の次長さんに出してもらいました。
明るさがいっぺんに10倍になりました。アルミのような表面に微細な反射特性の特徴があって、紙の白と較べて10倍明るいスクリーン。テカテカとした金属的反射もなく、すばらしいものです。2フートランバートの明るさが20フートランバートになった。
映画館は暗くて10、明るくて20です。これでビデオプロジェクターは商品レベル。コダックタイプスクリーンで行けるとなりました。横幅、2.4メートルのスクリーンまで商品化しました。もちろんコダックにパテント料は払いました。
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2レンズ3管式ビデオプロジェクターを創った
明るさをさらに上げようとトリニトロン1本だったプロジェクターを赤、青、緑の3本のブラウン管で合成して15倍以上明るくしようということになりました。バッテン型の色反射ミラーで3色を合わせて1個のレンズで投射するプロジェクターを試作しましたが、上下の色の違いが出るのと、内部の多重反射でコントラストが不足。そこで赤と青だけは色ミラーで合成して、1本のレンズで投射、緑は別のレンズで投射、つまり3管式ですが2レンズ方式新プロジェクターです。120インチサイズまで実用化出来た。竹内アイデア。
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世界初の家庭用カメラ一体ビデオ、ベータムービー開発に首をかけた
フランスに4年居て帰国し、ベータマックスに所属。そこで佐藤晶司さんが小さいカメラにチャレンジしていた。彼はオメガと呼ばれた放送局用のVTRと同じ様に1.5ヘッドの倍速ロータリーヘッドで回転ドラムの大きさを半分にして小さいVTRにしようと試みていた。でも構造的に不可能。そこで竹内アイデアがひらめいた。走査線を525本でなくて609本にすれば1ヘッドで記録できると着想。
フランスでの白黒テレビが819本だったので、それがヒントだった。819本の内、ヨーロッパのカラー放送の走査線である625本を画像として使い、残りの194本は遊び時間として普通よりブランキング部分が多い特殊画像と見れば成り立つ。
そこで、ベータムービーのドラムを倍速の60回転にし、円周全体が609本/2、テープが接している部分が約310度のテープ巻き付け角で525本/2です。残りの50度は絵が無いブランキング部分の42本に相当。長くなったブランキングは専用のカメラでブランキングを長くすればつじつまが合う。全走査線は609本の特殊カメラにして、画像信号分は525本、絵が無いブランキングは42本ずつ増える。525+42×2 =609、これで数字は合う。カメラ一体型のビデオだから、特殊カメラでも良い。再生したとき同じ525本なら構わない。
回転ドラムの直径が半分になると言う事はドラム重量は4分の1になり全セットも2キロで出来る。*だが、このベータムービーは事業部では商品性が理解されず、三度も明日から開発中止の命令を受けました。ユニークで不思議な技術も理解されなかった。でも隠れて創ってしまった。24年前です。
世界初の家庭用ビデオ一体型カメラが誕生。電池もカセットも含めて2キロ。海外旅行にも持っていける。江ノ島の海岸で水着を撮影しましたが、小型だったのでビデオカメラだとは気付かれません。
*最後はデザインセンターの渡辺英雄さん、黒木靖夫さんが応援団になり、「盛田さんにこれを見せようと思うが、認めてくれなかったら会社を辞めることになるけど、それでも良いかね」と念を押された。
見事成功。盛田さん、井深さん命令でプロジェクトがスタートし、一年で商品化。プロジェクトメンバーはどんどんエキスパートに替わり最強メンバーで製品化が出来た。私はさらにヨーロッパ向けベータムービーも開発。
その年のベータムービー1機種の利益は、テレビ事業部の全利益より多かった。ソニーの最高栄誉「井深賞」を若くして頂いた。副賞は50万しか出ない時代であった。8ミリ映画の撮影カメラを使っていた自分が、自分で欲しいのでベータムービーを創った。自分で創ったベータムービーで撮影し、自分で創ったビデオプロジェクターで大画面鑑賞できる様になった。竹内はホームシアターとホームムービーを完成させた
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ハンディカム1号機も創った
8ミリビデオ一号機は肩載せタイプであった。8ミリテープの小ささに匹敵するほど小さくなかった。すでに私はビデオ事業部から離れてデザインセンターに移っていた。盛田さんに直訴したので、事業部では造反者です。と言うよりも、次ぎには別の物をやりたかった。
直訴で救ってくれたデザインの渡辺さんから、まず与えられたのは、片手で持てる8ミリビデオカメラであった。佐藤さんと結局はペアを再開して、デザインセンター内だけで「片手で撮影できるからハンディカム」一号機を創ってしまった。
この時、回路にはセラミック基板を使ったハイブリッドICを初めて採用。表面部品実装をしている秋葉さんがグループで手伝ってくれた。計3人と言うか4人と言うかのメンバーであった。秋葉さんは普段の仕事をしながらの応援なので徹夜を重ねながらセラミック基板の設計も自ら行った。残念だがタイの副社長になった時、過労で逝去された。
*ビデオ事業部の手助け無しでハンディカムは試作出来た。持って行ったのはまたしても盛田さんの所。 事業部の知らないデザインセンターだけで小型の8ミリが創られてしまった。盛田さんは1年以下で商品に出すようにとビデオ事業部に頼んだ。事業部は出しますけれど大きさは少し甘くして下さいと言った。確かに大きくなった。ビデオ事業部の大嶋さんは試作機の中身のメカを見る事なく別の発想で小型メカを開発。意地だったと思う。
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ヘリコプタービデオプロジェクト。ジャンボトロン・ヘリ映像
1985年筑波科学万博で世界一のテレビ、横40メートル高さ25メートル2000インチのテレビを作った。ジャンボトロンの開発中心者は島田聰さん。
ソニーは大昔「ソニー号空飛ぶ冒険」というヘリコプターの探偵ものを番組提供していた。また、ソニーのヘリコプターを田舎の学校に着陸させ、子ども達にヘリコプター教室も行っていた。フランスからヘリを輸入して警視庁や消防や民間に納めている。盛田さんから、「ソニーのヘリにカメラを載せて世界一のジャンボトロンに上空からの映像を出したい」と言う事になり、「お前好きだろう」と言う事で、ヘリプロジェクトを行った。送信機受信機は、50ギガ、10ギガ、7ギガ、1.2ギガと製作した。東京新木場のヘリポートから上がっただけで筑波で受信できる様になった。一番大変だったのは毎週、電波管理局へ訪問し、万博期間中の実験局免許を得た事でした。3か月で用意し、井深盛田が世界最大のテレビ、ジャンボトロンの前で握手した背後にはヘリからの上空映像が受信され映っています。小さいテレビで始めたソニーが世界最大テレビも完成させた。
島田聰さんは昭和40年台始め、ソニービルで小さな電球を並べ尽くしたカラービデオパネルを試作しており、それから20年後に最大規模のジャンボトロンを完成。そこには立体の仕掛けも組み入れてあり、市松模様に左右別々になるように偏光板が2種類の角度で貼付けられていました。偏光板の為に本来の明るさの3分の1しか得られず、昼間は昼あんどんでした。でも会期後半は各パビリオンで立体映像の人気が長い行列とともに出て来た。野外のジャンボトロンなら並ばずに全員が立体大画面を見られるとなった。東映から宇宙船の模型を借りて立体撮影も行なった。
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初の16:9ワイドテレビと大画面高画質作戦
ハイビジョンは16:9のワイドだが、525本もワイド対応にしようと、特にビデオプロジェクターは部屋の壁とのマッチングで4:3では不自然さがある。ハイビジョン時代にはスクリーンも共通なので525本でもワイドが必要であるとして、カメラを16:9にしプロジェクターはサイズ切り替えを入れ、画質はベータカムに入っている1.5メガつまり普通の放送の3倍ある色情報を100パーセント利用できるコンポーネントカラー方式にし、音声は前方4チャンネルのリアルサウンズ、それを実現しました。ハイビジョンから525本に落とす時、輪郭強調だとかの映像のお化粧をせずに素直に表現させるのに徹し、世界一画質達成。横2.4メートルのスクリーンでもOK。DVDとテレビの接続にコンポーネント接続が標準になったが元をたどれば竹内提案。この当時のノウハウを使えばまだビデオカメラもテレビも絵が緻密できれいになる。
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12スピーカー、JAZZ・クラブ・ソニー。 マルチ・モノラル方式サウンズ
今までのステレオは、2つのスピーカー。つまり壁に二つの穴を開け隣の部屋で聴いているようなものです。本当は音楽は各楽器が別々に奏でている。それなら楽器の数だけスピーカーを並べて演奏したらと12個並べました。すると外人の子供は必ず踊りだします。リアルであるのと楽しい音になるのと二つです。
判ったことは。今まで疲れているときはCDの音を聴くとさらに疲れてしまうとなっていた。それは1つのスピーカーにボーカルとギターが混ざっているので、人間はボーカルを聴き分けるために、知らずに脳を使って疲れさせていたのです。個々別のスピーカーなら、何人かの人が同時に喋っていても聞き分けられます。一つのスピーカーに二つの楽器の音が同時に入ると、音声ピークで混変調が生じて音が濁り歪む。8kHzの楽器と9kHzの楽器が混変調を起こすとその差1kHzのビート歪みが起きる。ところが一つのスピーカーに一つの楽器の時は歪んでも整数倍の高調波歪。楽器の音は倍音構成ですからこの歪みは目立たない。音が良くなると子どもが踊りだします。正直です。
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何故ソニーを選んだか
昭和34年の5月、子どもの日に 日本橋三越で 「ソニー少年電子科学展」があり、デパートの中でトランジスターを製作する場面や、トランジスタラジオが製造される所を見る事が出来ました。デパートの中で工場見学が出来てしまった。
屋上ではスバルの軽自動車スバル360が、床に張られた電線からの磁気信号をトレースして自動運転されていた。社員の手作り実験です。 ドールハウスには小型のブラウン管がミニチュアテレビの様に嵌め込まれていました。子どもの目には印象が深かったのでしょう。そのとき子ども達に配られた冊子には未来の家がイラストで描かれていて、「立体兼平面カラー大型テレビ」が描かれています。それから12年後竹内はソニーの中でビデオプロジェクターを創りました。立体テレビもカメラを含めて完成させました。電通大からIBMにも電々公社にも行けたのに、子どもの時の印象でソニーを選んでいたのです。
家中の時計を分解してしまった井深さん、早稲田時代、アマチュア無線の創世記、アジア競技大会に学生が創った巨大ホーンスピーカー。卒業研究は光通信。それから、戦後の焼跡の白木屋に集まった7人。五球スーパーのバリコンに短波コイルを付けることでアメリカからのジャズを短波で聴くことから始まったのがソニー。無線仲間が創った会社でした。その、ヨチヨチさ加減が魅力。
10年前に映画を製作する仲間と映画館「BOX東中野」を作りました。自分たちの創った映画をかけられる映画館を創ろうとなったのです。35ミリもビデオ製作の映画もハイビジョンもかかります。映画100年の年に私にとってはビデオプロジェクター25年の時です。丁度4分の1世紀。ホームシアターと名付けたのが、性能が良くなってきてとうとう本物の映画館に設置されました。画が出たときは感激で目が潤んだ。さらに仲間は映画学校「映画美学校」も開校。
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子どもサイエンス 移動ミュージアム ミニ・エクスプロラトリアム
私の実験室に、2002年9月大賀さんが一時間半も来ました。MD以降この10年ソニーは新しい物を出していないと寂しそうでした。北京でコンサートの指揮をしている時、倒れられましたが奇跡的に回復されました。車から実験室までは肩を支えました。いま技術の空洞化が始まっていても子ども達の未来の空洞化は避けたい。
1989年ソニーはサンフランシスコの科学館エクスプロラトリアムの展示物65点を導入して、3年間7ケ所を回り100万人の入場者がありました。井深さんは好奇心の芽と捉えました。ソニー50周年記念科学館建設構想をたてた。1969年Exploratoriumは最初5点の展示物で始まり、30年間自ら館内で開発製作した展示物700点。気ちがい科学者のサイエンス工房。 そこから世界中のこども達にサイエンスの面白さが発信されました。
竹内は エクスプロラトリアムのレプリカを信州大学農学部の学生9人とで60点以上製作し、科学の祭典などで子ども達と楽しんでいます。制作費は7万円。2年間6か所9日間で1万1千人にサービス。多いときは一日に3500人。ステップワゴンに積んで出かけます。小さな移動ミュージアム。
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各小学校に7万円予算で、好奇心いっぱいの理科の部屋を創りたい
学校に行くのが楽しみになる子どもが出て来ます。子ども達が100円ショップの材料で出来るように工夫しています。文部大臣だった有馬さん、青少年育成担当の小野清子大臣、小渕恵三さんの娘さん、小渕優子議員さんとも接触しました。
養老猛司さんとともに長野県子ども未来センターの有識者委員
田中康夫知事さんから任命された。
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ガラスの天井
温室での植物の成長をみていると天井のガラスの直前で成長をやめている。「透明な天井でさえ自由な成長を妨げている」と言うのが井深さんでした。枝垂れ桜もなぜ地面に接触しないか、千鳥が淵の桜は何故水面に接しないのか、目があるみたいです。水耕栽培のトマトは巨大になります。興味を引き出すこと、自由な発想をすること。人のすなおな成長の心を支えてやること。
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「古佛心」
井深さんの最後の部屋にかかっていた3文字の書。ダイイングメッセージかと思う。
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エジソン。人々に便利さと楽しさを与える発明精神と企業化精神。
「人々の幸せ」の為にエジソンは電球、発電機、絶縁の為のゴムの農園、水力ダム、ダムの為のコンクリートを改善し、ダムの飯場の為のベニヤ板も開発。一つが出来れば次の必要な開発へと進んでいった。
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井深さんの部屋。好奇心や発想が湧くにはヒントになる物が多く散らばっている部屋が大切。
井深さんの部屋もその典型。科学おもちゃ、磁気浮上リニア列車、ゴルフの不思議なクラブ、智恵の輪、昔のラジオ、エジソン電球のフィラメント、嘘発見機、そんな物が発想の端緒を与えてくれる。トリガーと言うのは目に映るものから始まる。好奇心のおもちゃ箱。主がいる部屋。当然、同じ趣向の人が情報も智恵も持ってくる
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使い手の事を考えるのが デザインセンス。デザインアート系との連携。
気楽にアイデアに参加してくれるデザイナー。デザイン学生との交流。東京デザインネットワークというキャノン、日産、NEC、ソニー、4社のデザイナーが共同でデザインプロジェクトルーム活動をしていた。
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自分の欲しい物を創る(造る)、多くの人が買ってくれて使って楽しんでくれる喜び。
ユーザーの視点。 松下通信、中村さんのカーステレオの企画に助言。「車を買い女性を乗せて」。
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一生懸命やるから当然、世界最初、世界一。
自分以上にエキスパートは居ない。
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創造の源は ハングリー精神、 ユーザーの視点。
不満ふまん(HUMAN)を解決することがヒューマン(human)精神 、human サイエンス 、human エレクトロニクス、 いたわり やさしさ。
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仲間、ヒント、きっかけ、3人寄れば文殊の智恵。<
ボランティアは智恵の交流。何々なら任せておけ。類は類を呼ぶ。ブレーンストーミング。知恵×知恵のかけ算。
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手でこしらえる。手で知恵や発想。思いつくままに描く。空想を紙の上で考える。
鳥人間コンテスト、エコランカー、ソーラーカー、ロボコン、自分の家、手作り飛行機、手作り電気自動車。
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物を見る目、牛の耳の位置。SANYO井植会長さん牛を描く。立体テレビの推進者でもある
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普通は良く見ていない。スケッチした場面は覚えている。理解の吸収力。見る事はアイデアの栄養。
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アイデアは愛情
地球単位のポケベル お助けマシン。屋根用太陽電池。せり上がりガードレール。PARIS方向への標識。人を呼べるエレクトロニクス。超小型の大型製品(ビデオプロジェクターもその例)。買うと広くなる。改善提案 商品提案 デザイン提案。Electric=力。Electronics=知能。優しく、簡単、便利 、ジグザク歩道と駐車スペース。夜中の駐車。看板から税金。屋上は緑化税。街の美。ケーブルジャングル。
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わが町ウオッチング。 大学内ウオッチング。 不思議ウオッチング。
改善ウオッチング、無駄ウオッチング(5年毎の新装歩道)、年寄りウオッチング、子供ウオッチング。
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地球の外から観てみる。地球の外から自分たちを見てみる。地球の外から自分を見てみる。
- シンプルライフ。ロングライフ。エコライフ。直しながら使う。100年の家。地球へのいたわり。
- 「21世紀の江戸時代」。もったいない。玉川上水。金肥。森と魚。自然と人間の調和。江戸時代
- いたわりとやすらぎ。 老人と子供と知恵と経験と吸収力。 隣近所、お祭りに燃える。
- 生きがい。程よい。
- 四季。風情。情緒。地の食べ物。地の魚。自然治癒力。北イタリアと南イタリア。
- 休日に仕事。電話の無い生活もいい。じっくり仕事。
- 鳴かない鶏。 残飯から卵。 都会でイチゴ。アパートで柿。金柑。ユズ。葡萄。ビワ。
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子供の時代、子供たちが修復、戦乱の国の子供たちの画、戦車もあれば虹も鳩も幸せ家族も描く。
動物も巣を創る、1/2 サイズの子供ログハウス。竹で造る。子供用ベニヤ板ハウス。子どものお城。お泊りキャンプ。子供映画館。写生大会。子ども別荘村。ミュージアムバス。パンダより手の上のウサギ、金魚。市役所より幼稚園。大学より幼稚園。大学は子どもの遊び場に。東大を親も息子も知らないで東大入試。
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鳥は巣を造る、子育てする 餌を獲り、運ぶ 空も飛べる
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未来計画の無い日本。無駄金が作った公共施設。何でも人間の脳が作った(養老さん風)。
パッチワークの歩道、5年ごとの歩道改修、地上波デジタル。1台のテレビに何台ものチューナー、お買い物番組、日本の光ケーブルの非効率、国の借金666兆円が700兆円を超えた 年金破綻、病院で生まれ病院で死ぬ、お医者さんのスケジュールで早められる出産、おばあちゃんが亡くなると税金のために転校、土地の相続税で住めなくなる日本
*
虚像産業。イミテーション文明。NOTワーク ビジネス。エレクトロニクス・カオス
騒々しい広告の氾濫、やかましいテレビ、やかましい音楽、マルチメディア電線ジャングル。女群探知機。メル友。
*
地球のバランス、マグロを食べつくす。 酸性雨、アフリカのクーラー停電死。
ゴミの層の厚さ。飢餓、動乱、戦争で成人の遺骨。1万人の車殺人戦争(昨年7千人)。3万人の自殺者
*
人に一番役立つ事をする。世界最初。便利さ世界一。SONY/$ON¥。
*
戦後50年。日本、ドイツ、イタリア。天安門事件後10年、中国の発展。
*
海外旅行、大人の修学旅行、何を見るか、何を経験するか。
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M I Tメディアラボ、スティーブ・ベントン教授との交流を活かす。遊び心、子ども心
残念ながら昨年の終わりに急に62歳で無くなられましたが、ベントンさんはホログラムの1方式を発明した科学者で立体画像の権威。私が開発した新方式立体カメラを ベントン教授と一緒に MITで発表したかった。それを待たずに天国に行ってしまわれた。 また、子どもサイエンスに造詣が深い。メディアラボではレゴ・ブロックのロボットメカや TOMY からの未来おもちゃ開発も引き受けている。メディアラボの特徴は子どもも遊べる大学施設。
竹内幸一プロフィール
[職歴]
- 昭和44年4月よりソニー株式会社
- ソニー研究部3課テレビ開発部 - 岩間専務室 - ソニー技術研究所
- ソニーフランス・エレクトロニクスラボ - ビデオ事業部開発Gp
- ソニーデザインセンター - ソニー中央研究所
[ 業績 ]
- 世界初の家庭用ビデオプロジェクターを創り、開発商品化した。5000万台の新商品、ホームシアターマーケットを創出した。
- 単管式および3管式ビデオプロジェクター及びスクリーンを開発し商品化。
- 世界最初の一体型家庭用ビデオカメラ、ベータムービーを創り開発商品化。1億台の新商品ビデオカメラマーケットを創出した。ヨーロッパ方式も開発
- 小型8ミリ「ハンディカム1号機」CCD−M8を創りヒットさせる。
- ワイド画面のマーケットを創造。16:9ワイドカメラとワイドプロジェクター商品化。業界初16:9ワイド画面を山下久美子のステージを撮影し築地本願寺で公開。
【簡単なアイデアでもマーケットの新しい流れを作るエポック商品を創った】<br>
- 音が飛ばせるカセットテレコ、ラジカセ、FM送信マイク付ラジオ商品化。
- 短波受信しやすい若者向けラジオをつくり、スカイセンサーブームを構築。
- ステレオマイクによる録音で、あとで聴きやすい会議記録機を開発。
- ステレオワイヤレスマイク初商品化 。
- アンテナの無いワイヤレスマイク商品化。
- アーミースタイル・トランシーバーでヒット。
- バイノーラル録音方式開発商品化。
- MS方式1ボックス・ステレオ商品化。
【未来商品の開発】
- 楽器の数だけスピーカーを並べる12チャンネル・リアルマルチサウンズ・オーディオシステムを創造。坂田明ミジンコクラブ録音、jazzの録音、
チター録音、ブラバン録音、アカペラ録音。
- 89オーディオフェアで日本オーディオ協会としてリアルマルチサウンズ発表。
- 日本オーディオ協会記念講演会で12スピーカーリアルマルチサウンズ発表。
- 2000年パリでソニー未来展。jazz club sony リアルマルチサウンズを発表。
- 前方4チャンネルオーディオ創造。米米クラブ録音ドラムス、バロック録音。
- 「新方式立体カメラ」開発、目が疲れない立体画像システム開発。シンプルな立体カメラで操作が超簡単(未発表ご期待)。
- 未来型テレビ画面開発。見易い新感覚映像開発、普通の画像がどれでも立体感得られるテレビ開発、30年前。
- 初の液晶プロジェクター開発、22年前。
- 眼鏡型ディスプレーに凹面鏡導入商品化。
- 赤外線ビデオカップリング開発商品化。
- 電灯線利用映像伝送開発。
- イオンスピーカー開発、イオン化方式空気清浄機、30年前。
- 未来商品デザイン、20年前から。
- 家庭用ロボットプロジェクト15年前。
- 省エネ・高魅力照明機器開発企画。
- ファンタジック照明FANTASICA開発。
- プッシュフォーン電話による箱根盛田邸別荘のリモコン開発、32年前。
【アイデアサロンを主催】
- アイデア開発サロンをデザインセンター内で定期的に開催。
- ソニーOBを主体とするソニーPCL役員室での映像アイデア会を自ら主宰。
【新方式にチャレンジし商品化】
- ヨーロッパ方式TV、VTRおよびカメラ開発商品化。PAL、SECAM方式
- テレビ音声多重商品化 34年前
【高・画質改善技術の提案で商品化】
- 高画質ビデオ接続Y/C分離方式、コンポーネントカラー接続方式を商品化。
- ハイビジョンカメラを使った世界一の高画質NTSC画像実現し商品化。
【イベントと結びついた新技術開発】
- 筑波万博ジャンボトロンヘリコプターテレビ中継開発 円偏波画像伝送開拓。UHF/SHFで画像伝送。ラジコン飛行機カメラ。
- 雪のパラボラでロシアの衛星テレビ受信。1985年。学研とは2004年。
- 三宅一生 パリ「A・UN展」で100体の12音源マネキンコーラス。
【国際間技術リエゾン】
- 東京−フランス間技術リエゾン (フランス国営放送、トムソングループ)。
- アメリカでの文字放送をフランスの国営放送局と結び協力。
【社会活動】
- 映画館「BOX東中野」を開設。自分が創ったビデオプロジェクターが25年たって映画100年の年に本当の映画館に設置された。「映画美学校」も開校
- 子供向け、サイエンスミュージアム活動。
- '89ソニー・エクスプロラトリアム科学館展(50周年計画)。
- 「手作り出来るミニ・エクスプロラトリアム」活動。
- 移動「ミュージアムバス」活動。
- 各小学校に好奇心いっぱいのエクスプロラトリアム開設するプロジェクト。
【川崎市の産業振興財団との連携 産学官の連携プロジェクト活動に参加】
- 川崎市主催で3時間 竹内講演。
- 「クリエーティブな海外絵本と海外の子供ミュージアム」。
- 国立国際こども図書館設立発起人メンバー。
【未来と子ども達の為に ミュージアムつくり計画構想】
- 長野県子ども未来センター計画(田中康夫,養老猛司)。
- 日本のスミソニアン計画。エポック商品、発明、アイデアのミュージアム。
エジソンミュージアム計画。
【早稲田大学本庄での郵政省情報ハイウェイプロジェクトの企画書原案担当】
- 早稲田大学国際情報通信研究センター所長。
- 富永英義教授に請われて個人的協力で早大の本庄キャンパスを機軸とする大学院大学教育と情報マルチメディア、ギガビット光ネットワーク、デジタルアーカイブ機能。。i>篠田正浩監督のデジタル映画制作、川口での早稲田芸術学校。
- ベンチャービジネスインキュベーションセンターとを含めた郵政省系の産学官、30億円早稲田情報ハイウェイプロジェクト原案を作成。
- 本庄国際リサーチパークの一環。
■ 本サイトでは電通大関係者の体験談を幅広く募集しています。ぜひご寄稿ください。
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