オレンジ・ウォーク市からニュー・リヴァー川をモーターボートで南へ遡り、2時間ほどでニュー・リヴァー湖に着く。湖の西岸に沿うように、75キロ平方メートルの範囲に遺構が分布している。ここは、先住民の教会(インディアン・チャーチ)があった場所として有名であり、1582年の教会リストの中にもその名は登場する。しかし1641年には、この地を訪れた神父が敵対者によって消失した教会の有様を目撃している。
ラマナイについては、スペイン人の記録に、"Lamanay"、あるいは"Lamayna"とあり、"Lama/ai"を聞き取った結果とすれば、「おぼれた昆虫」の意となる。しかし、あまり素敵な名前ではない。スペイン人たちが聞き間違えて、実際には"Lama'an/ayin"であったとするならば、「潜ったワニ」となり、こちらの方が遺跡の名前としてはふさわしいとする説がある。実際に、遺跡からは数多くのワニの図像が描かれた土器や装飾品が発見されている。いずれにしても、古代の名前が残っている点でマヤでも珍しい遺跡である。
遺跡の分布に比べて、発掘した場所はまだまだ少ない。アルトゥン・ハ遺跡を調査したデビッド・ペンダギャストが発掘をしている。花粉分析の結果、先古典期前期にあたる前1500年頃にはトウモロコシが栽培されていることがわかった。この頃から人々が住み始めたのであろう。しかし大規模な建築活動の証拠は、前300年頃にならないとでてこない。
先古典期後期を代表する建造物は、何といってもラマナイ最大の神殿N10-43であろう。前100年頃に建てられたと考えられている。このピラミッドは古典期にも再利用された。その際、おもに正面部分に大幅な改修の手が加えられたようだ。
もう一つ忘れてはならないのが、N9-56という遺跡全体から見て北の湖岸に位置する小ピラミッドである。ここにはラマナイを有名にした巨大な漆喰のマスクが見られるが、これはむしろ次の古典期前期に属するものである。古典期の建築の下には、先古典期の建築が眠っていることがトンネル発掘などの成果によって明らかにされているのである。とくに北側上部で発見された別の神の面(マスク)は、セロス遺跡のマスクによく似ている。年代的にも近いので、おそらく先古典期後期には、両地域間で密接な交流が行われていたものと思われる。
このようにラマナイの場合、先古典期の建物を基本として、古典期の建物が建てられている点が特徴としてあげられる。建物ばかりでなく、付随する奉納品を納めた空間も確認されている。2種類の土器に貝製品や翡翠などを添えたものが、先古典期から古典期を通じて見受けられるのである。一方でエリートの墓というものが、かなり少ない点は気にかかる。他のマヤ地域の遺跡では、支配者らの権威を象徴する多数の副葬品を伴う墓が発見されているのに比べると確かに奇妙である。しかし、古典期の大建造物を前にすると、ラマナイとて、他の遺跡同様に、あるいはそれ以上に住民を支配する強い権力の存在がうかがわれるのである。
ラマナイで注目されるのは、マヤ低地で、古典期後期に起こる権力の衰退、遺跡の放棄という現象が見あたらない点である。後古典期に入ると、儀礼的な空間は、北から南へと移る。たとえば、N10-43のさらに南側に、N10-9というピラミッドがある。古典期前期にさかのぼると考えられているこのピラミッドは、後古典期に入っても、基本的なプランはそのままに、正面部分の化粧直しをしている程度で、再利用されたことがわかっている。
しかし、古典期の建物を完全に埋め、全く新しい建物を建てている部分もある。このN10-9の東には、N10-2やN10-4で囲まれる小さな広場がある。N10-2は、基壇の上に幅の広い柱廊構造を持っていたようだ。実はこの様式は、ユカタン半島北部の建築とよく似ている。建築だけではない。この小広場を囲む建造物からは、多数の墓が発見されている。おそらく後古典期のエリート達が葬られたのだろうが、副葬品としての土器を見ると、ユカタン北部のマヤパン文化のものを彷彿させる。年代的にはラマナイの方が古そうなので、こちらが起源かもしれない。こうした後古典期独自の建物というのは、これ以上見つかっていないが、これまで触れてきた遺跡北部に位置するような古典期の建物を覆う土層の中からも多数のマヤパン的な遺物が出土している。かなりの集団がここに存在し、エリート達は、遠隔地との交易を手中に収めながら支配力を高めていったのであろう。
スペイン人達がこの地を訪れた頃、神殿群が機能していたかどうかはわかっていない。彼らは神殿群よりも南に教会を建てたからである。しかし、教会の墓地には多数の遺体が埋葬されていることからも、人々がこの周辺に住んでいたことは確実である。少なくとも1641年に巡回神父が焼け落ちた教会の姿を記録するまではである。しかし教会自体の発掘によると、放棄後、再びマヤの人々はここに戻ってきたようで、墓や儀礼用具が出土している。土器の中には後古典期を思い起こさせるマヤパン的なものも含まれ、17世紀の終わり頃までラマナイが利用されていたことは間違いなさそうだ。
遺構解説