年 月 | 歳 | 調 査 | 文 献 |
1895年(明治28)8月-12月 | 25 | 第一回満州調査(遼東半島)
接受東京人類学会的囑咐
柳樹屯[=大連]−金州−水師営[=旅順]−山東省劉公島−水師営−金州−普蘭店[=新金](從某氏那邊得來拾得石鏃的情報)−復州(看遼末的磚塔)−熊岳城(第一次發現石器時代的石槍、漢代的五銖銭・紋磚等)−蓋平[=蓋県]−大石橋[=営口]−海城(發現獅子狩獵的雕刻)−析木城(遼代的磚塔三基以及石墓兩基)−岫巌[=岫岩]−鵬鳳城[=鳳城]−九連城[=丹東市的東北"九連城"]−義州−九連城−安東県−鵬鳳城−大孤山−貔子窩(發現磨製石斧)−金州
| 1986 a 1986 b 1953 |
1905年(明治38)8月-11月 | 35 | 第二回満州調査(遼東半島以及洞溝)
由東京帝国大學派遣
8/8 東京出発-8/18 大連着-旅順(3-4日滞在)-
金州−普蘭店[=新金](發掘鍋底山遺跡)−熊岳城(發掘漢
代遺物)−遼陽(發掘漢代磚墓)−奉天[=瀋陽]
(奉天宮殿=瀋陽故官的清寧宮的調査)−鉄嶺−
法庫門[=法庫]−康平−蒙古賓図王府(與賓図王一同拍攝照片)−康平−昌図−奉天(停留數日)
10/1 奉天出発−撫順−興京[=新案県西15km"興
京老城"](從陸軍得到車輛、食糧、護衛)−汪清辺門[=旺清門]−通北−洞溝[=集安](調查好太王碑與周邊)−外察溝門[=涼水]−懐仁[=垣仁]−興京−撫順−奉天−11/4 到達大連
11/5 乘坐多聞丸出發−11/12 東京 | 1905 1905-06 1906 1908 1909 g 1910 b 1910 c 1914 b 1915 1928 b |
1909年(明治42)3月-5月 | 39 | 第三回満州調査(遼東半島)
接受東京帝国大学的派遣、以及關東都督府的囑咐
3/22 從神戸出發−3/25 到達大連−旅順(老鉄山周邊的遺址發掘調查)-
4/16 大連−普蘭店[=新金]−貔子窩(調査)−普蘭店(調査)−熊岳城(調査)−大石橋[=営口](調査)−営口[=営口市]−大石橋−遼陽(花費一周左右在太子河畔調查)−撫順(花費4日進行調查)−聽聞父親的訃聞緊急歸國
| 1909 i 1909 k 1910 c
|
1927年(昭和2)8月-10月 | 57 | 第四回満州調査(満州全地區)
滿鐵的招聘、演講旅行
8/17 乘坐バイカル丸由神戸出發−8/20 到達大連(演講、會談、觀光等)−8/25 撫順(演講)−8/27 奉天[=瀋陽](連續3天演講、期間中的28日從鞍山當天往返)−8/30 安東[=丹東](2日間講演)−9/1 長春( 連續3天演講)−9/4 ハルビン( 連續3天演講、到博物館參觀、與俄羅斯人學者交流)−9/7 海林−寧安(渤海故城調査)−9/12 綏芥河−9/14 哈爾濱−9/15 阿什城[=阿城](金的上京調査)−9/19 チチハル(調查満州族)−9/20 洮南[=洮安](調查遼・金代的古城)−9/22 鄭 家屯[=双遼]−9/23 通達(莫林廟見学)−9/25 鄭家屯(調查オボ山遺跡)−9/26 四平街[=四平市](八面城調査)−9/27 長春−9/28 吉林(龍潭山調査)−9/29 奉天−鞍山(發掘漢墓、畫像石的調查)−10/4 奉天−10/5 鵬鳳城[=風域](高句麗墓、メンヒル的調査)−10/7 奉天−海域(析木城石墓、磚塔的調査)−10/9 大連(整理筆記)−10/12 普蘭店[=新金](石墓、メンヒル等的調査)−10/13 大連−10/14 乘坐ハルビン丸回國−10/17 到達神戸
| 1927 b 1928 a 1928 d |
1928年(昭和3)5月-7月 | 58 | 第五回満州調査(満州北部、遼東半島)
接受外務省対外文化事業部補助(與夫人貴美子、女兒幸子一同同行)
5/14 結束東部西伯利亞的調査到大連(夫人貴美子
到達)−5/15 奉天[=瀋陽]−四平街[=四平市]
−5/21 鄭家屯[=双遼](オボ山的調査)−ハルビン−マンチュリ[=満州里]−5/30 ハルビン(阿城県金的上京調査)−6/3 長春−6/4 書林(停留2日)−6/7 老爺嶺(鐵道只到此處、之後只能以馬代步、行走泥濘的山路)−蛟河−二道河子−6/8 六道河子−大沙河(落葉松的森林地帶、濕地)−威虎嶺−(森林的谷地中盛開著鈴蘭)−黄泥河−太平嶺−6/11 敦化(金代的古城、山城子的山城、吟爾巴山麓的遺跡等之調査)−6/23 吉林−長春−奉天−6/25 大連−6/26 鞍山(苗園墓群的發掘、千山遺跡的調査、メンヒル)−7/7 遼陽−7/9 大連−7/1 歸國
| 1928 b 1928 c 1928 e 1929 1943 |
1930年(昭和5)8月-12月 | 60 | 第三回蒙古調査(遼東半島、ワールマンハ、遠的皇都)
到東方文化学院東京研究所進行調查(與夫人貴美子同行)
8/21 從東京出發−8/23 自神戸乘船−8/26 大連−8/27 遼陽(遼代古塔的調査)−8/31 普蘭店(調査石墓)−9/1 金州(井山石窟佛的調査)−9/2 大連−9/4 奉天−9/5 鄭家屯[=双遼](原以為立即可以進入蒙古,但因雨後道路不佳,加上在高梁收獲之前馬賊出沒的情報,暫時先調查滿鐵沿線)−9/7 関原(調查古塔)−9/10 鉄嶺( 調查古塔)−奉天( 調查古塔、參觀博物館)−9/14 四平街[=四平市]−9/16 鄭家屯(調查オボ山遺跡、準備蒙古行)−9/22 通遼−(以下到11月為止ワールマンハ、達的皇都=巴林左旗等的調査)−12/1 四平街−12/2 奉天(到哪裡都被誤認是"支那人")−12/3 海城−12/4 析木城(石墓與古塔的調査)−12/5 海城−12/6 鞍山(對於新發現的隆昌的畫像石墓收集情報、其中一天到奉天當天往返前往博物館參觀)−12/9 隆昌州(收集情報、遼代畫像石墓的調查)−12/12 鞍山−12/14 鄭家屯(為了取回寄放的行李回去)−12/15 奉天−12/17 大連−12/18 大連発−12/21 東京
| 1932 a 1932 d 1933 a 1933 b 1933 e |
1931年(昭和6)9月 | 61 | 第六回満州調査(發掘遼陽都城)
夫人貴美子、息子龍次郎、接受東方文化学院東京研究的囑託中川徳治同行
大連(満鉄沿線調査中、満州事変勃発)-遼陽(23日間遼東京府的土城發掘)
| 1931 1946 b 『鳥居龍蔵全集』 付録月報11 |
1932年(昭和7)7月-9月 | 62 | 第七回満州調査(奉天、朝鮮北部、遼陽)
滿州國成立後沒多久身為文部省電影拍攝的指導者接受東方文化学院東京研究所的派遣(女兒緑子、兒子龍次郎一同同行)7/28 自門司港出發−大連−奉天[=瀋陽](清寧宮、東陵、北陵等的拍攝、湯玉麟的兒子從ワールマンハ的契丹皇陵盗掘した的遼代石碑於湯氏宅中進行調査)−8/14 朝鮮開城(調查高麗文化)−京城−慶州−8/25 奉天−大連−奉天− 8/29 遼陽(調査)−奉天−鄭家屯[=双遼]−奉天−9/30 乘坐アメリカ丸由大連出發−10/3 東京
| 1932 e 1932 h |
1933年(昭和8)8月-12月 | 63 | 第八回満州調査(研究契丹文化、遼中京府、調查ワールマンハ)
外務省對支文化事業部的補助(與夫人貴美子、女兒緑子、兒子龍次郎一同同行)
8/3 東京発−大連−奉天[=瀋陽]−錦県[=錦州市]
(遼的古塔的調査)−義県(10日左右進行遼代的古塔・石碑・
大仏寺、北魏的萬佛洞等的調査)北票−朝陽(遼的興中州、道代的古塔・遺跡等的調査)−凌源−平泉−承徳(数日之間調査)−9/15 平泉(これより先土匪多く蒙古騎馬兵の護衛がつく)−寧城県老蛤河畔大寧城(遼の中京、17日間調査)−10/4 赤峰(6日間調査)−林西−10/17 白塔子−10/21 ワールマンハ(15日之間在遼代壁画墓進行調查、大興安嶺山中搭帳篷生活、大雪)−林西−11/11 赤峰−11/22 烏丹城[=翁牛特旗](元代石碑的調査)−赤峰−11/27 朝陽(調査、整理、龍次郎發燒)−12/14 錦州(義県大佛寺進行調査)−12/16 大連−12/18 新京[=長春]−12/19 奉天−12/20 大連−12/21 乘坐ウラル丸由大連出發−12/24 到達東京
| 1937 a 1932 e 1934 d 1936 a 1936 b 1939 1943 |
1935年(昭和10)11月-12月 | 65 | 第九回満州調査(遼東半島、北京)
東方文化学院研究所的派遣(與夫人貴美子、兒子龍次郎一同同行)
11/8 由東京出發−11/9 乘坐吉林丸自神戸出發−11/12 大連
11/13 奉天[=瀋陽]−11/15 新京[=長春]−11/16 奉天−溝村子−11/17 北鎮(遼代双塔、東丹王陵等的調査)−11/26 溝幇子−11/27 奉天−11/28 鞍山−12/1隆昌州(一邊躲避匪族一邊進行遼代画像石墓的調査 cf.1932 a)−12/2 奉天−12/6 北平[=北京](天寧寺、白雲観、八里庄古塔等的調査)−12/14 蔚県(調查独落寺)−12/16 北平−12/23 山海關−12/25 大連−12/26 乘坐熱河丸自大連出發
| 1935 1936 c 1937 a 1937 b 1942 |
1896 a (明治29)) | 「遼東半島」『太陽』2巻6、7、9、11、12、14、15号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:573-597 |
1896 b (明治29) | 「遼東半島に於ける高麗の考古学上の事実」『史学雑誌』7編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:598-603 |
1905 (明治38) | 「満洲調査復命書」『官報』12月9日付・『史学雑誌』17編2・3・4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:534-542 |
1905-06 (明治38-39) | 「満洲に於ける人類学的視察談」『東京人類学会雑誌』237・8号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:551-567 |
1906 (明治39) | 「満文字の地図と職貢図」『学燈』10巻1号;『鳥居龍蔵全集』第10巻:532-534 |
1907 a (明治40) | 「入蒙飛信」『日本美術』95号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:567-569 |
1907 b (明治40) | 「蒙古語に就て」『東京人類学会雑誌』251号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:395-398 |
1907 c (明治40) | 「我国のメルヘン(Märchen)と蒙古のメルヘン(Märchen)とに就て」『東亜の光』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:475-481 |
1907 d (明治40) | 「日本語と蒙古語の親族的関係」『太陽』13巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:398-405 |
1907 e (明治40) | 「蒙古の楽器」『日本美術』100号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:49ト493 |
1907-08 (明治40-41) | 「日豪類似語に就て 第一、二、三、四回」『史学雑誌』18編11号-21編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:405-471 |
1908 (明治41) | 「満洲の石器時代遺蹟と朝鮮の石器時代遺蹟との関係に就て」『東京人類学会雑誌』262号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:546-552 |
1909 a (明治42) | 「蒙古旅行談(興安嶺及びシラムレン方面)」『東洋時報』124-5;『鳥居龍蔵全集』第2巻:545-566 |
1909 b (明治42) | 「シラムレン及興安嶺地方旅行談」『地学雑誌』21巻245号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:545-550 |
1909 c (明治42) | 「奈曼族の風俗」『東京人類学会雑誌』278号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:520-521 |
1909 d (明治42) | 「蒙古風俗一斑」『東亜之光』4巻5・6・7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:482-490 |
1909 e (明治42) | 「蒙古老蛤河水源地の古砦跡」『東京人類学会雑誌』279号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:519-520 |
1909 f (明治42) | 「有史以前の満洲の民族」『中央公論』24年7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570-573 |
1909 g (明治42) | 「輿安嶺附近に於ける薩満教の遺風」『東京人類学会雑誌』280号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:495-500 |
1909 h (明治42) | 「マルコポロ旅行記中のNatigayとOngotに就て」『東京人類学会雑誌』281号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:607-610 |
1909 i (明治42) | 「南満洲旅行談」『東洋時報』131・132号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:567-595 |
1909 j (明治42) | 「マルコポロ旅行記に見ゆる蒙古人の風習」『中央公論』24年10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:521-523 |
1909 k (明治42) | 「老鉄山麓の貝殻墓と其遺物」『東京人類学会雑誌』285号;『鳥居龍蔵全集』第8巷:617-618 |
1910 a (明治43) | 「シラムレン流域及興安嶺方面に於ける東胡民族の遺跡」『地学雑誌』22年256・257・258号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:500-518 |
1910 b (明治43) | 「洞溝に於ける高句麗の遺跡と遼東に於ける漢族の遺跡」『史学雑誌』21編5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:603-617 |
1910 c (明治43) | 『南満洲調査報告』東京帝国大学刊;『鳥居龍蔵全集』第10巻:1-165 |
1911 a (明治44) | 「遼の上京と其遺品」『國華』21第248・253号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:576-587 |
1911 b( 明治44) | 『蒙古旅行』博文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:ト284 |
1913 (大正2) | 「満洲より北朝鮮の旅行」『東洋時報』179・180号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:620-637 |
1914 a (大正3) | 「考古学民族学研究・東蒙古の原住民」Etudes Archéologiques de Ethnologiques.Populations Primitives de la Mongolie Orientale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:121-197 |
1914 b (大正3) | 「人類学研究・満州族」Etudes Anthropologiques.Les Mandchoux.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:199-229 |
1915 (大正4) | 「考古学民族学研究・南満洲の先史時代人」Etudes Archéologiques et Ethnologlques.Populations Préhistoriques de la Mandchourie Méridionale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:231-309 |
1917-18 (大正6-7) | 「支那周囲の民族」『東洋時報』231・232号;『鳥居龍蔵全集』第12貴:650-664 |
1920 a (大正9 | 「西伯利亜の有史以前(上)」『人類学雑誌』35巻1号:『鳥居龍蔵全集』第7巻:516-531 |
1920 b (大正9) | 「土俗学上より観たる黒龍江畔の民族」『人類学雑誌』35巻3・4合併号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:560-580 |
1920 c (大正9) | 「東部西比利亜旅行談」『東洋時報』259・260・261号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:664-677 |
1921 (大正10) | 「満蒙の有史以前(学位記)」『官報』大正10年10月5日;『鳥居龍蔵全集』第8巻:525-528 |
1922 a (大正11) | 『北満洲及び東部西伯利亜調査報告』(朝鮮総督府古蹟調査特別報告第二冊)朝鮮総督府;『鳥居龍蔵全集』第8巻:259-280 |
1922 b (大正11) | 「文献史上より遡り観たる南満洲最古の住民」『人類学雑誌』37巻10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:552-569 |
1922 c (大正11) | 「文献史上より遡り観たる東蒙古最古の住民」『人類学雑誌』37巻12号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:471-475 |
1923 (大正12) | 「北満洲東間島にある堡寨と竪穴」『人類学雑誌』38巻5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570 |
1924 (大正13) | 『人類学及び人種学上より見たる北東亜細亜』同書店;『鳥居龍蔵全集』第8巻:1-258 |
1926 a (大正15) | 『極東民族 第一巻』文化生活研究会;『鳥居龍蔵全集』第7巻:99-317 |
1926 b (大正15) | 「蒙古に於けるアメリカ学術探検隊の仕事に就いて」『太陽』32巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:493-495 |
1927 a (昭和2) | 「鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』跋文」昭和6年六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第8巻:524-525 |
1927 b (昭和2) | 「満蒙通信 其一、其二」『武蔵野』10巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:569-571 |
1928 a (昭和3) | 『満蒙の探査』萬里閣書房;『鳥居龍蔵全集』第9巻:285-393 |
1928 b (昭和3) | 「西比利亜・満蒙通信」『武蔵野』11巻5・6号・12巻2号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:617-623 |
1928 c (昭和3) | 「ネストリアン教の十字発見」『中央公論』43年9号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:689-690 |
1928 d (昭和3) | 「満蒙に於ける人類学上の研究に就きて」『啓明会講演集』25回;『鳥居龍蔵全集』第6巻:559←576 |
1928 e(昭和3) | 「画像石のある古墓」『中央公論』43年10号;『鳥居龍蔵全集』第12巷:690-691 |
1929 (昭和4) | 『西比利亜から満蒙へ』大坂屋号書店;『鳥居龍蔵全集』第10巷:167-217 |
1931 (昭和6) | 「鳥居研究員遼陽発掘報告講演」『東方学報』東京1号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:618-620 |
1932 a (昭和7) | 『満蒙を再び探る』六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:395-542 |
1932 b (昭和7) | 「南満洲および東蒙古の新石器時代遺物」Restes Néoithiques de la Mandchourie Méridionale et de la Mongolie Orientale.第一回極東先史学者学会研究発表:『鳥居龍蔵全集』第5巻:657-658 |
1932 c (昭和7) | 「満洲国に於ける五大遺跡に就て」『歴史教育』7巻2号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:542-546 |
1932 d (昭和7) | 「猴王孫呉空(遼代の壁画)」『武蔵野』18巻2号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:602-604 |
1932 e (昭和7) | 「満洲だより」『武蔵野』19巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:576-578 |
1932 f (昭和7) | 「朝鮮・満洲の磨製石器に就て」『上代文化』8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:643-646 |
1932 g (昭和7) | 「満洲国より武蔵野へ」『武蔵野』19巻4号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:578-579 |
1932 h (昭和7) | 「私共の今回旅行した地方と其の仕事」『ドルメン』1巻8号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:654-656 |
1932 i (昭和7) | 「我が国と契丹文化の関係」『セルパン』22巻16号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:650-654 |
1933 a (昭和8) | 「遼の皇都とその陵墓」『国際写真情報』11巻1号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:682-684 |
1933 b (昭和8) | 「契丹の陵墓とその陵碑に就いて」『上代文化』9号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:609-616 |
1933 c (昭和8) | 「ホロンパイルと熱河について」『歴史公論』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:528-532 |
1933 d (昭和8) | 「私と熱河省の研究に就て」『ドルメン』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:532-534 |
1933 e (昭和8) | 「東蒙古に存在する金剛界曼陀羅の磚塔」『中央美術』(復興)1号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:622-628 |
1934 a (昭和9) | 「満洲・蒙古を探る」『中央公論』49年2号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:693-700 |
1934 b (昭和9) | 「近頃発見せられた契丹文字に就て」『書物展望』4巻3号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:677-681 |
1934 c (昭和9) | 「遼代陵墓内の壁画に就て」『中央美術』8号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:595-599 |
1934 d (昭和9) | 「契丹の残した遺蹟の探査に就て」『歴史科学』3巻4号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:618-622 |
1935 (昭和10) | 「満洲北支通信」『武蔵野』22巻12号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:579-580 |
1936 a (昭和11) | 「遠の王陵壁画に就て」『ミネルバ』4号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:600-602 |
1936 b (昭和11) | 『考古学上より見たる遼之文化図譜 第一冊~第四冊』東方文化学院東京研究所刊 |
1936 c (昭和11) | 「満洲陵墓と景教との関係に就て」『史学雑誌』47巻6号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:604-605 |
1936 d (昭和11) | 『満蒙其他の思ひ出』岡倉書房刊;『鳥居龍蔵全集』第12巻:1-136 |
1937 a (昭和12) | 『遼の文化を探る』章華社刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:369-556 |
1937 b (昭和12) | 「景教に関する画像石」『考古学雑誌』27巻2号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:605-609 |
1939 (昭和14) | 「遼の中京城内に存在する石器時代の遺蹟」『東方学報』東京9冊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:587-595 |
1940 a (昭和15) | 「北魏時代の下花園石窟寺」A Pei Wei Buddhist Cave Temple atHsia-Hua-Ytian.Occasional Papers,Harvard-Yenching Institute,Peking Office 1940;『鳥居龍蔵全集』第5巻:671-680 |
1940 b (昭和15) | 「契丹黒山嶺考」『燕京学報』28期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:33-46 |
1941 (昭和16) | 「契丹之角砥」『燕京学報』29期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:45-56 |
1942 (昭和17) | 『遼代の画像石墓』Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty.Harvard-Yenching Institute,1942;『鳥居龍蔵全集』第5巻:555-638 |
1943 (昭和18) | 「契丹と中央亜細亜との服装の類似に就て」『中央亜細亜』2巻2期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:628-641 |
1944 (昭和19) | 「再び契丹と中央亜細亜との服装と建築の類似に就て」『中央亜細亜』3巻1・2期合刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:642-650 |
1946 a (昭和21) | 「石面彫刻の渤海人の風俗とササン・ベルシア式胡瓶」石面彫刻之渤海人風俗与薩珊式胡瓶『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:21-31 |
1946 b (昭和21) | 「ササン・ペルシア様式の瓶と渤海人の風習」Vases of the Sas-Sanian Style and the Ways and Manners of the Pohai People.『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:31 |
1946 c(昭和21) | 「中国支石墓(石棚)の研究」中国石棚之研究『燕京学報』31期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:1-19 |
1947 (昭和22) | 「奴児干都司考」『燕京学報』33期;『鳥居龍蔵全集』第6巷:295-350 |
1948 a (昭和23) | 「金上京城仏寺考」『燕京学報』34期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:273-293 |
1948 b (昭和23) | 「金の上京城及びその文化」金上京城及其文化『燕京学報』35期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:209-272 |
1949 (昭和24) | 「遼の上京城内遣存の石人考」遼上京城内遺存之石人考『燕京学報』36期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:57-81 |
1950 (昭和25) | 「遠の中京城内遣存の二石像考」遼中京城内遣存之二石像考『燕京学報』38期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:83-108 |
1951 (昭和26) | 「遼上京城の南、伊克山上の遼代仏剃」遼上京城以南伊克山上之遼代仏刺『燕京学報』40期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:109-207 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記』朝日新聞社;『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-342 |