年 | 歳 | 事 項 | 参 考 |
1870年(明治3) | | 4月4日 阿波国名東郡徳島船場町で生まれる | |
1876年(明治9) | 6 | 観善小学校に入学 | |
1877年(明治10) | 7 | 小学校を中途退学、以来、高等小学校・中学校の課程を独学・自習。 | 2-9月 西南の役 4月 東京大学設立 |
1886年(明治19) | 16 | 東京人類学会に入会。 | 東京人類学会創設 |
1892年(明治25) | 23 | 東京に移住 | |
1893年(明治26) | 23 | 東京帝国大学理科大学人類学教室標本整理係となり、 坪井正五郎教授に師事。 | |
1894年(明治27) | 24 | | 日清戦争勃発 |
1895年(明治28) | 25 |
8-12月 東京人類学会から派遣され遼東半島の調査
* 東京人類学会より派遣、石器時代の石槍、石斧を収集。析木城(せきぎじょう)付近で2個のドルメンを発見。 | 4月 日清講和条約調印 |
1896年(明治29) | 26 | 8-12月 第一回台湾調査(東海岸の調査)
* 始めて人類学の研究に写真を用いる。 * タイヤル、新高(ツォウ)、ブタン、サウ(ザウ)、ツアリセン(ルカイとパイワンの一部)、パイワン、ピウマ(卑南)、アミ、ヤミの諸族を区分 | |
12月 台湾からの帰途、沖縄に立ち寄り、風俗習慣を調査 | |
1897年(明治30) | 27 | 10-12月 第二回台湾調査(紅頭嶼/こうとうしょ):台湾東南上の孤島紅頭嶼(蘭嶼)でヤミ族の調査 | |
1898年(明治31) | 28 | 6月2日 東京帝国大学理科大学助手に任ぜられる。 | |
7-12月 第三回台湾調査(知本渓以南の南部調査) | |
1899年(明治32) | 29 | 5-6月 北千島の人類学的調査
*択捉島(えとろふ)、色丹島(しこたん)、幌筵島(ばらむしり)、占守島(せんしゅ)で貝塚、住居址、石器、土器、骨角器の調査 | |
1900年(明治33) | 30 | 1-8月 第四回台湾調査(台湾中南部の調査) | |
4月10日 新高山[=玉山]に登る。 | |
1901年(明治34) | 31 | 12月 徳島市市原応資氏の三女市原キミと結婚 | |
1902年(明治35) | 32 | 7-翌3月 西南中国の苗族(ミャオ族)調査
*上海から漢口へ、そこから長江(揚子江)をさかのぼる。湖南省の洞庭湖から江に入って遡行し、貴州省に入り、貴陽、安順、朗岱(ろうたい)と、苗嶺の高原地帯を横断。貴州省から勝境関をへて雲南府(昆明)に至る。武定を経て北上、四川省の成都に向かう。成昆鉄道に沿って彝族(イゾク/ロロ)の集中地域を通過する。 | |
著作:『紅頭嶼土俗調査報告 | |
1903年(明治36) | 33 | 著作:『千島アイヌ』 | |
1904年(明治37) | 34 | 6-7月 沖縄諸島調査 | 2月 日露戦争開戦 |
1905年(明治38) | 35 | 7月28日 東京帝国大学理科大学講師を嘱託さる。 | |
8月28日 長男 龍雄誕生 | |
9-11月 第二回満州調査 | 9月 日露講和条約 |
1906年(明治39) | 36 | 3月 きみ子夫人蒙古バラチン王府女学堂に赴任。 | |
4月 蒙古ハラチン王府教育顧問・男子学堂教授となる。 | |
1907年(明治40) | 37 | 1月 夫婦、蒙古からいったん帰国。 | |
3月23日 長女幸子誕生 | |
6月 親子3人で第二回蒙古調査に出発
* 喀喇沁(かくらしん)王府、赤峰を経て北上、シラムレン川流域から大興安嶺を横断して、ブイルノール湖に至る。さらに南下してドロンノール一帯の調査をする。1年に及ぶ東部モンゴルの大踏査を行う。 | |
著作:『苗族調査報告』 | |
1908年(明治41) | 38 | 蒙古調査旅行より帰る | |
1909年(明治42) | 39 | 3-5月 第三回満州調査
*南満州の漢代の墳墓、旅順老鉄山の積石塚(クルガン)の調査、大石橋付近まで燕の文化が及んでいたことを発見。 | |
5月3日 父新次郎死去 | |
1910年(明治43) | 40 | 5月2日 次女緑子誕生夏、朝鮮の予備調査を行う。 | 8月 日韓合併条約 |
著作:『南満州調査報告』 | |
著作:Etudes Anthropologiques.Les Aborigènes de Formose (1r Fasc.)Introduction | |
1911年(明治44) | 41 | 春、第一回朝鮮調査
* 金海貝塚、扶余、美林里の遺跡発掘調査、平壌の古墳、済州島 | |
7月 南樺太調査 | |
1912年(明治45) | 42 | 春、第二回朝鮮調査 | |
6月19日 母とく子死去 | |
著作:Etudes Anthropologiques.Les Aborigènes de Formose.(2eFasc.)Tribu Yami. | |
1913年(大正2) | 43 | 第三回朝鮮調査 | |
5月26日 坪井正五郎死去 | |
1914年(大正3) | 44 | 第四回朝鮮調査 | 8月 第一次世界大戦勃発 |
著作:Etudes Archéolo-giques de Ethnologlques.Populations Primitives de la Mongolie Orientale.Etude Anthropologlques Les Mandchous. | |
1915年(大正4) | 45 | 第五回朝鮮調査 | |
著作:Etudes Archéologique et Ethnologlques.Populations Préhistoriques de la Mandchourie Meridionale. | |
1916年(大正5) | 46 | 第六回朝鮮調査 | |
7月6日 次男龍次郎誕生 | |
1917年(大正6) | 47 | 著作:『平安両道 黄海道古跡調査報告』 | |
1918年(大正7) | 48 | 著作:『有史以前の日本』 | |
1919年(大正8) | 49 | 6-12月 第一回東部シベリア調査
* ウラジオストクに上陸、付近のヤンコフスキー貝塚を調べ、西方に移動、アングル川流域と大興安嶺の地域でソロン、ダウル、オロチョン各族の調査をする。オノン川流域でブリヤート、モンゴル人の調査、積石墓(クルガン)の調査を行う。 * 黒龍江(アムール川)うを下り、沿岸のゴリド(ナナイの一部)、ギリヤーク(ニヴヒ)、ネグダ(ネギダール)諸族の村を訪ねる。 | |
著作:Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Ainou des Iles Kouriles. | |
1920年(大正9) | 50 | フランス・パリ学士院よりパルム・アカデミー賞授与 | |
1921年(大正10) | 51 | 5月10日 文学博士号授与 | |
6-8月 北樺太と東部シベリア・アムール河畔の調査
* 再びアムール河口部と北サハリンの調査。サハリンから間宮海峡を渡り、チールで明代の奴児干(スルハン)都司や永寧寺跡を調査、後北サハリンに戻り、ギリヤーク族の村を訪ねる。 | |
1922年(大正11) | 52 | 東京帝国大学助教授に任命さる | |
4月11日 国学院大学講師 | |
著作:『北満州及び東部西伯利亜調査報告』師 | |
1923年(大正12) | 53 | 2月 長男龍雄パリに留学 | |
5月10日 国学院大学教授 | 9月 関東大震災 |
1924年(大正13) | 54 | 6月2日 東京帝国大学を辞職 | |
著作:『人類学及人種学上より見たる北東亜細亜』『武蔵野及其周囲』『日本周囲民族の原始宗教』『諏訪史第1巻』『下伊那の原史及先史時代』 | |
1925年(大正14) | 55 | 著作:『有史以前の跡を尋ねて』『武蔵野及其有史以前』『有史以前の日本改訂版』『人類学上より見たる我が上代の文化(1)』 | |
1926年(昭和元) | 56 | 秋、中国山東省調査。南定県王母山の丘上でドルメンを発見 | |
著作:『極東民族第1巻』『先史及原史時代の上伊那』『第二回第三回延岡付近古墳調査』『人類学上より見たる西南支那』 | |
1927年(昭和2) | 57 | 1月30日 龍雄パリで客死 | |
8-10月 第四回満州調査。阿什河の金の上京址を訪れる。その後牡丹江(ぼたん)に至る。渤海故城址を調査。 | |
著作:『上代の東京と其周囲』『水戸光園とアイヌ研究』 | |
1928年(昭和3) | 58 | 上智大学創立に尽力し、文学部長・教授に就任。 | |
4-7月 第三回東部シベリア調査。。 | |
4-7月 第五回満州調査。吉林省敦化付近の金の古城址を調査する。 | |
著作:『満蒙の探査』 | |
1929年(昭和4) | 59 | 著作:『西比利東から満蒙へ』 | |
1930年(昭和5) | 60 | 8-12月 第三回蒙古調査。
* 東カラチンにある遼の中京城址を調査、北上してワールマンハの慶陵の再調査を行う。 | |
著作:Les Dolmens du Chantong(Chine) | |
1931年(昭和6) | 61 | 第六回満州調査 | 9月 満州事変 |
1932年(昭和7) | 62 | 7-8月 第七回満州調査・第七回朝鮮調査 | |
著作:『満蒙を再び探る』 | |
1933年(昭和8) | 63 | 8-12月 第五回蒙古調査
* 東カラチンにある遼の中京城址を調査、北上してワールマンハの慶陵の再調査を行う。 | |
第八回満州調査 | |
12月31日 国学院大学教授を辞職 | |
1935年(昭和10) | 65 | 11-12月 第九回満州・北支那調査
* 医巫閭山(いふりょさん)にある遼の東丹王陵を調査、鞍山付近で遼代の再調査、北京にて遼の南京城址、天寧寺の遼の塔聖安寺を調査 | |
著作:『満蒙に於ける契丹の遺跡に就いて』;Ancient Japan in the Light ofAnthropology;『上代の日向延岡』 | |
1936年(昭和11) | 66 | 著作:『考古学より見たる遼之文化図譜』『蒙満其他の思い出』『遼の文化を探る』 | |
1937年(昭和12) | 67 | 4-翌2月 ペルー・ボリビアでインカ帝国遺跡調査 | 7月支那事変勃発 |
著作:『遼の文化を探る』 | |
1938年(昭和13) | 68 | 秋、華北における遼及び北宋関係の遺跡調査 | |
1939年(昭和14) | 69 | 8月 燕京大学客座教授に就任 | |
1940年(昭和15) | 70 | 著作:A Pei Wei Buddhist Cave Temple at Hsia-Hua-Yuan | |
1940年(昭和15) | 70 | 満州遼代石墓調査、山西省雲崗石仏、山東省各種遺跡調査 | |
1941年(昭和16) | 71 | 満州遼代画像石墓やドルメンの調査。山西省の遼代城跡や雲崗石窟、山東省をまわる。 | |
1941年(昭和16) | 72 | | 12月 太平洋戦争勃発 |
1942年(昭和17) | 72 | 著作:Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty. | |
1943年(昭和18) | 73 | 著作:『黒龍江と北樺太』 | |
1945年(昭和20) | 75 | | 8月 終戦 |
1951年(昭和26) | | 7月 燕京大学退職 | |
12月 中国より帰国 | |
1953年(昭和28) | 82 | 著作:『ある老学徒の手記』 | |
1月14日 東京にて死去 | |