1896 a (明治29)) | 「遼東半島」『太陽』2巻6、7、9、11、12、14、15号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:573-597 |
1896 b (明治29) | 「遼東半島に於ける高麗の考古学上の事実」『史学雑誌』7編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:598-603 |
1905 (明治38) | 「満洲調査復命書」『官報』12月9日付・『史学雑誌』17編2・3・4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:534-542 |
1905-06( 明治38-39) | 「満洲に於ける人類学的視察談」『東京人類学会雑誌』237・8号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:551-567 |
1906 (明治39) | 「満文字の地図と職貢図」『学燈』10巻1号;『鳥居龍蔵全集』第10巻:532-534 |
1907 a (明治40) | 「入蒙飛信」『日本美術』95号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:567-569 |
1907 b (明治40) | 「蒙古語に就て」『東京人類学会雑誌』251号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:395-398 |
1907 c (明治40) | 「我国のメルヘン(Märchen)と蒙古のメルヘン(Märchen)とに就て」『東亜の光』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:475-481 |
1907 d (明治40) | 「日本語と蒙古語の親族的関係」『太陽』13巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:398-405 |
1907 e (明治40) | 「蒙古の楽器」『日本美術』100号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:49ト493 |
1907-08 (明治40-41) | 「日豪類似語に就て 第一、二、三、四回」『史学雑誌』18編11号-21編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:405-471 |
1908 (明治41) | 「満洲の石器時代遺蹟と朝鮮の石器時代遺蹟との関係に就て」『東京人類学会雑誌』262号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:546-552 |
1909 a (明治42) | 「蒙古旅行談(興安嶺及びシラムレン方面)」『東洋時報』124-5;『鳥居龍蔵全集』第2巻:545-566 |
1909 b (明治42) | 「シラムレン及興安嶺地方旅行談」『地学雑誌』21巻245号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:545-550 |
1909 c (明治42) | 「奈曼族の風俗」『東京人類学会雑誌』278号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:520-521 |
1909 d (明治42) | 「蒙古風俗一斑」『東亜之光』4巻5・6・7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:482-490 |
1909 e (明治42) | 「蒙古老蛤河水源地の古砦跡」『東京人類学会雑誌』279号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:519-520 |
1909 f (明治42) | 「有史以前の満洲の民族」『中央公論』24年7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570-573 |
1909 g (明治42) | 「輿安嶺附近に於ける薩満教の遺風」『東京人類学会雑誌』280号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:495-500 |
1909 h (明治42) | 「マルコポロ旅行記中のNatigayとOngotに就て」『東京人類学会雑誌』281号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:607-610 |
1909 i (明治42) | 「南満洲旅行談」『東洋時報』131・132号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:567-595 |
1909 j (明治42) | 「マルコポロ旅行記に見ゆる蒙古人の風習」『中央公論』24年10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:521-523 |
1909 k (明治42) | 「老鉄山麓の貝殻墓と其遺物」『東京人類学会雑誌』285号;『鳥居龍蔵全集』第8巷:617-618 |
1910 a (明治43) | 「シラムレン流域及興安嶺方面に於ける東胡民族の遺跡」『地学雑誌』22年256・257・258号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:500-518 |
1910 b (明治43) | 「洞溝に於ける高句麗の遺跡と遼東に於ける漢族の遺跡」『史学雑誌』21編5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:603-617 |
1910 c (明治43) | 『南満洲調査報告』東京帝国大学刊;『鳥居龍蔵全集』第10巻:1-165 |
1911 a (明治44) | 「遼の上京と其遺品」『國華』21第248・253号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:576-587 |
1911 b (明治44) | 『蒙古旅行』博文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:ト284 |
1913 (大正2) | 「満洲より北朝鮮の旅行」『東洋時報』179・180号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:620-637 |
1914 a (大正3) | 「考古学民族学研究・東蒙古の原住民」Etudes Archéologiques de Ethnologiques.Populations Primitives de la Mongolie Orientale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:121-197 |
1914 b (大正3) | 「人類学研究・満州族」Etudes Anthropologiques.Les Mandchoux.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:199-229 |
1915 (大正4) | 「考古学民族学研究・南満洲の先史時代人」Etudes Archéologiqueset Ethnologlques.Populations Préhistoriques de la Mandchourie Méridionale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:231-309 |
1917-18 (大正6-7) | 「支那周囲の民族」『東洋時報』231・232号;『鳥居龍蔵全集』第12貴:650-664 |
1920 a (大正9 | 「西伯利亜の有史以前(上)」『人類学雑誌』35巻1号:『鳥居龍蔵全集』第7巻:516-531 |
1920 b (大正9) | 「土俗学上より観たる黒龍江畔の民族」『人類学雑誌』35巻3・4合併号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:560-580 |
1920 c (大正9) | 「東部西比利亜旅行談」『東洋時報』259・260・261号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:664-677 |
1921 (大正10) | 「満蒙の有史以前(学位記)」『官報』大正10年10月5日;『鳥居龍蔵全集』第8巻:525-528 |
1922 a (大正11) | 『北満洲及び東部西伯利亜調査報告』(朝鮮総督府古蹟調査特別報告第二冊)朝鮮総督府;『鳥居龍蔵全集』第8巻:259-280 |
1922 b (大正11) | 「文献史上より遡り観たる南満洲最古の住民」『人類学雑誌』37巻10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:552-569 |
1922 c (大正11) | 「文献史上より遡り観たる東蒙古最古の住民」『人類学雑誌』37巻12号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:471-475 |
1923 (大正12) | 「北満洲東間島にある堡寨と竪穴」『人類学雑誌』38巻5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570 |
1924 (大正13) | 『人類学及び人種学上より見たる北東亜細亜』同書店;『鳥居龍蔵全集』第8巻:1-258 |
1926 a(大正15) | 『極東民族 第一巻』文化生活研究会;『鳥居龍蔵全集』第7巻:99-317 |
1926 b ( 大正15) | 「蒙古に於けるアメリカ学術探検隊の仕事に就いて」『太陽』32巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:493-495 |
1927 a (昭和2) | 「鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』跋文」昭和6年六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第8巻:524-525 |
1927 b (昭和2) | 「満蒙通信 其一、其二」『武蔵野』10巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:569-571 |
1928 a (昭和3) | 『満蒙の探査』萬里閣書房;『鳥居龍蔵全集』第9巻:285-393 |
1928 b (昭和3) | 「西比利亜・満蒙通信」『武蔵野』11巻5・6号・12巻2号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:617-623 |
1928 c (昭和3) | 「ネストリアン教の十字発見」『中央公論』43年9号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:689-690 |
1928 d (昭和3) | 「満蒙に於ける人類学上の研究に就きて」『啓明会講演集』25回;『鳥居龍蔵全集』第6巻:559←576 |
1928 e (昭和3) | 「画像石のある古墓」『中央公論』43年10号;『鳥居龍蔵全集』第12巷:690-691 |
1929 (昭和4) | 『西比利亜から満蒙へ』大坂屋号書店;『鳥居龍蔵全集』第10巷:167-217 |
1931 (昭和6) | 「鳥居研究員遼陽発掘報告講演」『東方学報』東京1号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:618-620 |
1932 a (昭和7) | 『満蒙を再び探る』六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:395-542 |
1932 b (昭和7) | 「南満洲および東蒙古の新石器時代遺物」Restes Néoithiques de la Mandchourie Méridionale et de la Mongolie Orientale.第一回極東先史学者学会研究発表:『鳥居龍蔵全集』第5巻:657-658 |
1932 c (昭和7) | 「満洲国に於ける五大遺跡に就て」『歴史教育』7巻2号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:542-546 |
1932 d (昭和7) | 「猴王孫呉空(遼代の壁画)」『武蔵野』18巻2号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:602-604 |
1932 e (昭和7) | 「満洲だより」『武蔵野』19巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:576-578 |
1932 f (昭和7) | 「朝鮮・満洲の磨製石器に就て」『上代文化』8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:643-646 |
1932 g (昭和7) | 「満洲国より武蔵野へ」『武蔵野』19巻4号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:578-579 |
1932 h (昭和7) | 「私共の今回旅行した地方と其の仕事」『ドルメン』1巻8号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:654-656 |
1932 i (昭和7) | 「我が国と契丹文化の関係」『セルパン』22巻16号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:650-654 |
1933 a (昭和8) | 「遼の皇都とその陵墓」『国際写真情報』11巻1号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:682-684 |
1933 b (昭和8) | 「契丹の陵墓とその陵碑に就いて」『上代文化』9号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:609-616 |
1933 c (昭和8) | 「ホロンパイルと熱河について」『歴史公論』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:528-532 |
1933 d (昭和8) | 「私と熱河省の研究に就て」『ドルメン』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:532-534 |
1933 e (昭和8) | 「東蒙古に存在する金剛界曼陀羅の磚塔」『中央美術』(復興)1号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:622-628 |
1934 a (昭和9) | 「満洲・蒙古を探る」『中央公論』49年2号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:693-700 |
1934 b (昭和9) | 「近頃発見せられた契丹文字に就て」『書物展望』4巻3号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:677-681 |
1934 c (昭和9) | 「遼代陵墓内の壁画に就て」『中央美術』8号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:595-599 |
1934 d (昭和9) | 「契丹の残した遺蹟の探査に就て」『歴史科学』3巻4号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:618-622 |
1935 (昭和10) | 「満洲北支通信」『武蔵野』22巻12号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:579-580 |
1936 a (昭和11) | 「遠の王陵壁画に就て」『ミネルバ』4号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:600-602 |
1936 b (昭和11) | 『考古学上より見たる遼之文化図譜 第一冊~第四冊』東方文化学院東京研究所刊 |
1936 c (昭和11) | 「満洲陵墓と景教との関係に就て」『史学雑誌』47巻6号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:604-605 |
1936 d (昭和11) | 『満蒙其他の思ひ出』岡倉書房刊;『鳥居龍蔵全集』第12巻:1-136 |
1937 a (昭和12) | 『遼の文化を探る』章華社刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:369-556 |
1937 b (昭和12) | 「景教に関する画像石」『考古学雑誌』27巻2号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:605-609 |
1939 (昭和14) | 「遼の中京城内に存在する石器時代の遺蹟」『東方学報』東京9冊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:587-595 |
1940 a (昭和15) | 「北魏時代の下花園石窟寺」A Pei Wei Buddhist Cave Temple atHsia-Hua-Ytian.Occasional Papers,Harvard-Yenching Institute,Peking Office 1940;『鳥居龍蔵全集』第5巻:671-680 |
1940 b (昭和15) | 「契丹黒山嶺考」『燕京学報』28期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:33-46 |
1941 (昭和16) | 「契丹之角砥」『燕京学報』29期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:45-56 |
1942 (昭和17) | 『遼代の画像石墓』Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty.Harvard-Yenching Institute,1942;『鳥居龍蔵全集』第5巻:555-638 |
1943 (昭和18) | 「契丹と中央亜細亜との服装の類似に就て」『中央亜細亜』2巻2期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:628-641 |
1944 (昭和19) | 「再び契丹と中央亜細亜との服装と建築の類似に就て」『中央亜細亜』3巻1・2期合刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:642-650 |
1946 a (昭和21) | 「石面彫刻の渤海人の風俗とササン・ベルシア式胡瓶」石面彫刻之渤海人風俗与薩珊式胡瓶『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:21-31 |
1946 b (昭和21) | 「ササン・ペルシア様式の瓶と渤海人の風習」Vases of the Sas-Sanian Style and the Ways and Manners of the Pohai People.『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:31 |
1946 c (昭和21) | 「中国支石墓(石棚)の研究」中国石棚之研究『燕京学報』31期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:1-19 |
1947 (昭和22) | 「奴児干都司考」『燕京学報』33期;『鳥居龍蔵全集』第6巷:295-350 |
1948 a (昭和23) | 「金上京城仏寺考」『燕京学報』34期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:273-293 |
1948 b (昭和23) | 「金の上京城及びその文化」金上京城及其文化『燕京学報』35期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:209-272 |
1949 (昭和24) | 「遼の上京城内遣存の石人考」遼上京城内遺存之石人考『燕京学報』36期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:57-81 |
1950 (昭和25) | 「遠の中京城内遣存の二石像考」遼中京城内遣存之二石像考『燕京学報』38期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:83-108 |
1951 (昭和26) | 「遼上京城の南、伊克山上の遼代仏剃」遼上京城以南伊克山上之遼代仏刺『燕京学報』40期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:109-207 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記』朝日新聞社;『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-342 |