年 月 | 歳 | 調 査 | 文 献 |
1910年(明治43年)夏 | 41 | 予備調査
(東京港)-釜山港(船中米穀王熊本利平と知り合い、途中米作地に数ヶ所寄港)-仁川港。京城(『世界』を発行していた二宮氏の紹介で、寺内総督と会い調査打ち合せ、古蹟調査、石器時代の調査、朝鮮人の生体測定)-釜山-(東京港)
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1911年(明治44年) | 42 | 第一回調査(写真井上達三、助手信州史家黒岩秀次)
8/29 東京-京城-9/8 釜山-9/10 成鏡道(僻遠の地であるため古俗残すと珍しく風俗関係にやや詳しい説明)元山-城津(東海岸)-会寧(豆満江畔)-豆満江を渡り満州渾春へ(土城および市街の調査)-豆満江を渡り雄基湾に-1912年3月京城-水原-(東京)石器の存在を確認(八木氏らの朝鮮に石器時代遺跡無しの説訂正)、山城、風俗(髪型、家屋、馬、旅合、食事など)、巫俗、身体測定。
| 1912,1924 |
1912年(明治45年) | 43 | 第二回調査(画家佐藤醇吉、写真澤俊一同行)
(10月満州旅順、総督福島将軍を訪ね、同官舎に宿泊-汽専-長春-吉林省東=海龍塀で女真文字拓本を取る)-鴨緑江-朝鮮楚山-鴫線江-満州輯安県洞溝(高句麗古墳、好大王の碑、山城)-楚山-京城-(1913年3月宮崎県知事の要請により、帰途古墳調査-1913年4月東京)
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1913年(大正2年) | 43 | 第三回調査(関野貞博士も総督府嘱託として、古建築、古墳の調査を行ったので、専ら石器時代の遺跡と生体測定、傍ら土俗の調査に限定する。写真澤俊一同行)
慶尚南道、慶尚北道、全羅南遺、全羅北道、多島海、済州島(石器表面採集可能、洛東江の金海貝塚発掘、縄文式無く、弥生式と類似、ドルメンいたるところにあり、女子の髪型、十二支の絵を外に貼る、瓢箪舟、農事祭式としての仮面劇)1/21 洛東江-1/25 金海(貝塚発掘、身体測定)-成安(第二の日本府の地古墳調査、民俗記述)-2/1 鎮海-統営-巨済島-統営-固城-南海島-蟾津江-河東-露梁津-釜山-東莱-密陽-昌寧-3/1 大邱-3/4 慶州-3/9 迎日湾-清河-盈徳-青松-安東-栄州-豊基-醴泉-龍宮-尚州-金泉-億館-星州-高霊-大邸-3/31 京城-4/15 大邱-4/19 慶州(半月城地盤の新羅以前の遺跡を発掘)-4/24 迎日湾の浦項-日月池-阿珍浦-利見台-感応専-慶州-蔚山-全羅南道-光州-木浦-5/15 (警備船で)梅花島-概子島-5/17 済州島(面白い地で、土俗も陸地朝鮮と異なった点がある、一般と海女の身体計測)-6/7 木浦-右水営-木浦-6/14 珍島-莞島-6/23 麗水-6/24 巨文島-順天-7/9 宝城
| 1914a |
1914年(大正3年) | 44 | 第4回調査(写真澤俊一同行)
忠清南道-息清北道-中央山脈を横断-江原道(石器時代の遺跡、朝鮮人の生体測定、高麗時代の仏刺の牡や仏像見学。西海岸沖積堆土のため貝塚連続、東海岸直線波荒く石器海中に没す。)
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1915年(大正4年) | 45 | 第5回調査(写真澤俊一同行)
黄海道-平安南道(生体測定、石器調査、平壌付近、大同江畔の美林里遺跡は、石器時代と三国時代の中間に漢式土器と金属器を含む、漢代樂浪郡時代と推定)-慶尚南道-慶尚北道-欝陵島(古墳、麻、日本米子との往来、生体測定。黄海道の長山半島の夢金浦は、李朝以前山東省の漢人漁民および仲買人の根拠地として栄えた。)
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1916年(大正5年) | 47 | 第6回調査(写真澤俊一同行)
-9/27 -12/24 平安北道-黄海道-鴨緑江口付近-京畿道-釜山 | |
1932年(昭和7年) | 63 | 第7回朝鮮調査
第7回満州調査(文部省の満州国撮影指導の帰り。スケッチ係として次女緑子、撮影係として次男龍次郎同行)の途中、-8/14 -8/25 (義州)-開城(高麗の故址の調査)-京城(藤田亮作の斡旋で京城大学関係者などのティーパーティー)-慶州(新羅遺跡見学)-(奉天) | |