鳥居龍蔵の世界 Page07



鳥居龍蔵の千島調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。


中川 裕


鳥居龍蔵が千島アイヌの調査を行ったのは、1899年(明治32年)のことである。一般に千島アイヌと呼ばれるのは、千島列島でもウルップ島以北の、いわゆる北千島に住むアイヌ人を指すが、当時すでに彼らは1884年(明治17年)の千島・樺太交換条約のあおりを受けて、色丹島に強制移住させられており、その人数も移住当時の97人から62人にまで減っていて、まさに消滅の危機に瀕していた。

1899年5月、鳥居は千島列島最北端の島であるシュムシュ島で発見された竪穴式住居と、そこに残された遺物を調査するため東京帝国大学人類学教室から派遣され、千島列島視察の任に赴く戦艦武蔵に便乗。同月6日函館を出航した。17日色丹島到着。そこで千島アイヌ人の通訳グレゴリー氏を雇い入れ、20日色丹島を発って、エトロフ、ウルップ、ブノレトン(マカンルル)、シムシル、ポロモシリの各島を歴訪、25日にシュムシュ島に到着。そこで5日間ほど竪穴式住居と遺物の調査を行い、それが千島アイヌのものであることを確認。そして、6月5日に再び色丹島を訪れ、以後そこに24日間滞在して、彼らの形質、言語、民俗などを調査した。

 この報告は、1903年(明治36年)刊行の『千島アイヌ』にまとめられたが、予定されていた二巻のうち、研究史、地名、人名、人口、言語、考古学の一都を収めた前編しか刊行されず、民俗に関する部分などを報告するはずだった後編は刊行されずじまいだった。その部分を含めた調査報告は、1919年(大正8年)に東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編として公刊された、"Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles."にまとめられたが、これはフランス語で書かれており、そのために国内ではあまり利用されてこなかった[同論文は、1976年(昭和51年)になって『鳥居龍蔵全集』第5巻に「考古学民族学研究・千島アイヌ」として邦訳収録された]。

 しかしこの調査記録は、それ以前のクラシェニンニコフ、シュテラー、ディボフスキ、ミルン、スノウなどの報告を踏まえた上で、さらに細かいところまでに観察の及んだものであり、以後本格的な調査が行われないままに千島アイヌの人々の風俗習慣そのものがまったく消滅してしまった今日、アイヌ研究にとって必須の文献であり、その価値が減じられることは永久にないだろう。

鳥居の調査報告が当時直接的に影響を与えたのは、1887年(明治20年)頃から盛んになった、有名なコロポックル論争であろう。コロポックル論争というのは、北海道の先住民(さらには日本全土の先住民)がアイヌ人の先祖であるか、それともコロポックルというアイヌの伝説中に現れる民族であるかという論争であり、彼の師である坪井正五郎博士はこのコロポックル説の先鋒であったが、彼の調査ははからずもそれを否定する結果となった。アイヌ説をとる小金井良精博士らがそれに意を得て、坪井と激しく論戦を交わしたことが記録に残っている。

一方、言語学の分野では、1903年(明治36年)の『千島アイヌ』で公表されたアイヌ語千島方言の語彙集がおおいに利用された。千島方言の語彙記録は1755年に公刊されたクラシェニンニコフのものが最初であり、その後シュチラー、ディボフスキなどによって発表されている。とくにディボフスキのものは、千島方言の語彙集としては現在にいたるまで最大のものであり、『千島アイヌ』の三倍の分量があるのだが、同書がポーランド語で書かれている上、一般の手には入りにくい本であったため、村山七郎氏が『北千島アイヌ語』(1971吉川弘文館)で同書の解説を行うまで、ほとんど利用されてこなかった。そこで、国内では『千島アイヌ』の語彙集を、アイヌ語千島方言の例として引用するのが一般的であった。たとえば、1964年(昭和39年)に刊行された服部四郎編『アイヌ語方言辞典』(岩波書店)は、北海道から樺太にかけての9つの方言を現地調査して、それを一覧表にしたものだが、千島方言については当時すでに調査は不可能の状態であったので、『千島アイヌ』の語彙をそのまま引用して他の方言と同列に並べている。また、後に浅井亨氏がアイヌ語諸方言問の格差を統計学的に算出した際も、彼の語彙を千島方言のデータとして用いている。

 今回発見された写真原版のうち、当初千島のものとして分類されていたものは82点あった。そのうち48点は、1919年の論文に掲載された写真と同一であり、他の文献の挿図や、焼きつけされた写真そのものを撮影したようなものも多く、大部分は同論文の出版のために東京で撮影されたものと思われる。うち15点が、千島で採集されたと思われる民具類だが、ほとんどのものは写真に写っている原物そのものが、現在大阪の国立民族学博物館に所蔵されている。また、実際には掲載されていないが、おそらく同論文中に使うつもりで撮影されたと思われる写真がその他に11点ある。

次に、千島(おもに色丹島)で撮影したと思われる人物や風景のスナップ写真が13点ある。そのうち、1903年および1919年の論文で用いられているものは、武蔵船上で撮影されたわずか1点であり(48点の中に含めて数えてある)、あとの12点はむしろ論文に掲載したものの残りという感じがする。また、1912年(大正1年)に上野で開かれた拓殖博覧会会場で撮ったと思われる、ニヴフ、樺太アイヌ、北海道アイヌの人々と、その展示家産の写真が8点ある。写真の同定については、北海学園大学の藤村久和氏及び東京国立博物館の佐々木利和氏に御協力をいただいた。

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[千島列島の民族分布図][鳥居龍蔵の千島調査地図]


■千島アイヌ関係著書・論文目録

以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。

1895(明治28)「アイヌの木偶と云へる物」『東京人類学雑誌』109号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:441-443
1899 (明治32)「千島土人制作の木偶」『東京人類学雑誌』163号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:443-445
1902 (明治35)「千島土人の土俗」『東京人類学雑誌』190号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:439-441
1903 a (明治36)『千島アイヌ』吉川弘文館;『鳥居龍蔵全集』第7巻:1-98
1903 b (明治36)「北千島アイヌの入墨に就て」『東京人類学雑誌』;『鳥居龍蔵全集』第7巻:445-447
1904 (明治37)「千島アイヌに就いて」『地学雑誌』16巻191・192号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:425-435
1913 (大正2)「民族学上千島アイヌの位置」『民俗』1年2報;『鳥居龍蔵全集』第12巻:700-706
1919 (大正8)『考古学民族学研究・千島アイヌ』Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles.東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:331-553
1933 (昭和8)「北千島アイヌの仮面」『ドルメン』2巻1号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:447-449
1939 (昭和14)「ミルン氏と私の北千島探査に就て」『武蔵野』26巻4号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:435-438



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