鳥居龍蔵の世界 Page06



鳥居龍蔵の満州調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。


谷野典之


すでによく知られているように鳥居龍蔵の海外における学術的研究の出発点は、1895年(明治28年)の遼東半島の調査にある。当時25歳の「一貧書生」であった鳥居は、恩師坪井正五郎博士の力添えによって東京人類学会の嘱託を受け、遼東半島調査に赴くことになった。晩年の「その時の喜びは実に喩える言葉もないほどであった」という述懐によっても、この調査行にかける鳥居の意気込みをうかがうことができる。

日清戦争直後の当時、遼東半島は日本占領下にあり、そこを鳥居は若さにまかせて歩きまわった。ハルビン・旅大間のいわゆる東清鉄道(後の満鉄)の営業が始まったのが1903年であるから、当時の遼東半島は徒歩で行くしかなかった。このとき鳥居は、熊岳城で初めて石器や漢代の有紋磚を、貔子窩では磨製石器を発見した。海城では獅子狩り図像の石彫を発見し、また復州では遼代の古塔、析木城で初めてドルメンを見ている。この第一回調査の意義は、この地域において日本人の学術調査の先鞭をつけたという点にとどまらない。中国東北部に関する鳥居の後年の研究テーマのほとんどが、実はここに集約されていたのである。

この第一回調査に始まり、鳥居の満州調査はその後十回を越える。行く先々で目に映るあらゆる事物に興味を示し、それをかならず自身の研究のなかに位置づけていった鳥居の学問の軌跡を辿ることは容易ではないが、たとえば、(1)石器、ドルメン等の先史考古学的研究(2)漢代墳墓の発掘調査と研究(3)渤海・遼・金の都城址の発掘調査と研究(4)遼代の壁画、画像石の発掘調査と研究(5)人類学的研究調査という五つの柱を立てて考えることも許されよう。 このうち先史考古学の分野では、1921年(大正10年)「満蒙の有史以前」というテーマで学位を取っている。また第一回調査において熊岳城で発見した有紋磚は、鳥居は初め高麗のものと考え、そのような論文も発表したが(1896 b)、その後の第二回調査でそれが漢代のものであるとの認識に達し、自説を改めている(1990 i,1910 c)。そしてこのことが、後に朝鮮平壌の墓群をめぐってそれを高句麗のものとする関野貞博士等に対して、一人鳥居が漢の楽浪郡治のものであると明言した根拠になったのである(1910 b)。遼東半島における鳥居の漢代墳墓の研究が重要性をもつゆえんである。さらに、初めての調査行で出会った遼代の遺跡は、後年鳥居が遼文化の研究に没頭してゆくきっかけとなった。鳥居の調査は、その後台湾、千島、西南中国、シベリア、朝鮮、ペルーなどにおよぶが、昭和15年北京の燕京大学客座教授となって中国に渡って以降、晩年はこの遼代文化の研究をライフワークとしたことは改めて言うまでもない。ぐるりと弧を描くようにして、満州という地域、遼という時代に戻っていったのである。

満州における調査の概要については、簡単な旅程表のかたちにまとめてみた。この表のうち第*回**調査とあるのは、鳥居博士顕彰会編『図説鳥居龍蔵伝』(1965年)およびそれを踏襲した『鳥居龍蔵全集』別巻(1977年)著作総目録・年譜にあわせたものである。そのため1930年(昭和5年)の調査は、実質的に満州調査を含んでいるが、ここでは先行年譜にしたがって「第三回蒙古調査」としている。

この簡単な旅程表によっても、鳥居がフィールドにおいていかに精力的に仕事をしていったかが伝わってくる。驚くべきことはいくつもあるのである。まず、同じ地点に何度も足を運んで、納得のいくまで調査を繰り返している点。この旅程表には燕京大学時代(1939-1951年)の調査は含まれていないが、すでに高齢に達していたその時期でさえ、しばしば追加調査にでかけている。次に、一日たりと時間を無駄にしていない点。たとえば、早朝にA地点を出発し、B地点で調査を行い、その夜にはC地点に向けてもう移動を始めるというような強行軍が、しばしばあたりまえのように行われている。1927年(昭和2年)の第四回調査は、講演旅行の合間を縫っての遺跡調査ではあったが、62日間で満州を縦横無尽に駆け抜けている。もっともこの時は鳥居自身が、「この短日時の間に私はよく第七回(注-蒙古調査も含んだ回数)の調査としてベストを尽くしたものと思う。」(1928 a)と自分で感心している程だから、特に過密なスケジュールであったことは確かであるが。

このような調査にかける情熱の前には満州の酷寒も泥濘も、馬賊に襲われる危険も考慮の対象にはなりえなかったらしい。1933年(昭和8年)第八回調査では、大興安嶺山中のワールマンハで吹雪のなかでテント生活を送りつつ、火の気のない陵墓の中で壁画の模写や調査をしている。1935年(昭和10年)の第九回調査も、冬季にかかる調査であった。このときには、匪賊の襲撃を心配しながら、それでも雪の中で隆昌州の遼代画像石墓の調査をやめようとはしなかった。このどちらの場合も夫人や家族が同行して研究を助けていたが、鳥居はともかくご家族のご苦労は想像するにあまりある。

最後に、ここに収めた鳥居の撮影にかかる写真について説明しておきたい。今回のプロジェクトの対象になった写真乾板二千五百枚余りのうち、満州に関するものは75枚であった。そして分析・照合の結果、この75枚は全て同一時期に撮られたものであり、それは1905年(明治38年)8月8日から11月12日までの第二回調査におけるものであるという結論に達した。

その行程を写真によって辿ってみよう。1905年8月18日に大連到着後、金州を経て普蘭店鍋底山の発掘で石器のほか、初めて土器を採集した。次に熊岳城と遼陽で漠代遺物および漢代磚墓を発掘し、『漢書』『後漢書』にある遼東郡が、当時の通説であった遼西地方ではなくこの遼東半島に存在したことを確認した。写真3016(第4部Plate1;以下4:1と表記する)、3062(4:2)、3021(4:3)、3069(4:4)、3049(4:5)は、遼陽の陸軍兵站病院敷地内の磚墓の発掘現場である。その後、奉天(瀋陽)に赴き、同じく東京帝国大学より派遣された市村?次郎(中国史、当時41歳)・伊東忠太(東洋建築史、同38歳)と合流。さらに大阪朝日新聞社の派遣による内藤湖南(中国史、同39歳)が加わり、時に鳥居35歳、当時の少壮気鋭、後のシノロジージャイアント四人が顔を揃え、瀋陽宮殿(故宮)の清寧宮-清の太祖ホンタイジの居室-の入口にある一室にともに宿泊し、宮殿内調査に従事することになった。写真3058(4:6)、3065(4:7)、3075(4:8)、3048(4:9)、3061(4:10)、 3057(4:11)が、清寧宮の所蔵品である。また瀋陽では太祖の陵墓北陵にも行っている[写真3006(4:12)、3066(4:13)]。

その後鳥居は中国内地とモンゴルの境界をなす長柵を法庫門で越え、初めてモンゴルに足を踏み入れている[写真3043(4:14)]。この時の経験が後年のモンゴル研究に結びついたことは、後年鳥居自身が明らかにしているところである(1911 b)。

再び瀋陽に帰った鳥居は旅装を整え、清の故地興京を経て長白山中を横断して鴨緑江河畔洞溝(集安)に至る。写真3007(4:15)、3037(4:16)が、その旅の様子を伝えている。

写真3002(4:17)、3036(4:18)、3073(4:19)、3070(4:20)、3004(4:21)は、撮影地点不明であるが、やはりこの第二回調査の途上撮影されたものと推定される。清末時期の中国農村の民俗を知るうえで貴重な映像資料として、収録しておく。

なお足跡図については、ここに収めた写真と関連する遼東半島について示してある。時期としては第一回から第三回の旅程を示した。それ以降の調査については旅程表を参照していただきたい。第二回調査については、モンゴル行および遼陽発掘が集安から帰った後であるという鳥居の後年の回想(1928 a、1953)もあるが、ここでは、帰国直後の報告(1905、1905-06)に従っている。

それぞれの写真のキャプションは可能なかぎりの分析・照合の結果をもとにしているが、なお誤りもあることと思う。御教示いただければ幸いである。

フォト・ギャラリーへ



■満州調査旅程
[1895年(明治28年)-1935年(昭和10年)]

年 月調  査文 献
1895年(明治28)8月-12月 25 第一回満州調査(遼東半島)
東京人類学会の嘱託を受ける
柳樹屯[=大連]-金州-水師営[=旅順]-山東省劉公島-水師営-金州-普蘭店[=新金](某氏より石鏃を拾ったとの情報)-復州(遼末の磚塔を見る)-熊岳城(初めて石器時代の石槍、漢代の五銖銭・紋磚等を発見)-蓋平[=蓋県]-大石橋[=営口]-海城(獅子狩り彫刻発見)-析木城(遼代の磚塔三基およびドルメン二基)-岫巌[=岫岩]-鵬鳳城[=鳳城]-九連城[=丹東市の東北"九連城"]-義州-九連城-安東県-鵬鳳城-大孤山-貔子窩(磨製石斧発見)-金州
 1986 a
 1986 b
 1953
1905年(明治38)8月-11月35第二回満州調査(遼東半島および洞溝)
東京帝国大学派遣
8/8 東京出発-8/18 大連着-旅順(3-4日滞在)-
金州-普蘭店[=新金](鍋底山遺跡発掘)-熊岳城(漢
代遺物の発掘)-遼陽(漢代磚墓の発掘)-奉天[= 
瀋陽](奉天宮殿=瀋陽故官の清寧宮の調査)-鉄嶺-
法庫門[=法庫]-康平-蒙古賓図王府(賓図王と写真を撮る)-康平-昌図-奉天(数日滞在)
10/1 奉天出発-撫順-興京[=新案県西15km"興京老城"](陸軍より車両、食糧、護衛を与えられる)-汪清辺門[=旺清門]-通北-洞溝[=集安](好太王碑と周辺を調査)-外察溝門[=涼水]-懐仁[=垣仁]-興京-撫順-奉天-
11/4 大連着
11/5 多聞丸にて出発-11/12 東京
 1905
 1905-06 
 1906
 1908
 1909 g
 1910 b 
 1910 c 
 1914 b 
 1915
 1928 b 
1909年(明治42)3月-5月39第三回満州調査(遼東半島)
東京帝国大学の出張、関東都督府の嘱託
3/22 神戸発-3/25 大連着-旅順(老鉄山周辺の遺跡発掘調査)-4/16 大連-普蘭店[=新金]-貔子窩(調査)-普蘭店(調査)-熊岳城(調査)-大石橋[=営口](調査)-営口[=営口市]-大石橋-遼陽(1週間ほど太子河畔で調査)-撫順(4日間調査)-父の計報を聞き急遽帰国
 1909 i 
 1909 k 
 1910 c 
1927年(昭和2)8月-10月57第四回満州調査(満州全域)
満鉄の招聘、講演旅行
8/17 バイカル丸にて神戸発-8/20 大連着(講演、会談、観光等)-8/25 撫順(講演)-8/27 奉天[=瀋陽](3日間講演、うち28日は鞍山へ日帰り)-8/30 安東[=丹東](2日間講演)-9/1長春(3日間講演)-9/4 ハルビン(3日間講演、博物館見学、ロシア人学者と交流)-9/7 海林-寧安(渤海故城調査)-9/12 綏芥河-9/14 ハルビン-9/15 阿什城[=阿城](金の上京調査)-9/19 チチハル(満州族調査)-9/20 洮南[=洮安](遼・金代の古城の調査)-9/22 鄭 家屯[=双遼]-9/23 通達(莫林廟見学)-9/25 鄭家屯(オボ山遺跡の調査)-9/26 四平街[=四平市](八面城調査)-9/27 長春-9/28 吉林(龍潭山調査)-9/29 奉天-鞍山(漢墓の発掘、画像石調査)-10/4 奉天-10/5 鵬鳳城[=風域](高句麗墓、メンヒル調査)-10/7 奉天-海域(析木城ドルメン、磚塔調査)-10/9 大連(ノート整理)-10/12 普蘭店[=新金](ドルメン、メンヒル等の調査)-10/13 大連-10/14 ハルビン丸にて帰国の途につく-10/17 神戸着
 1927 b 
 1928 a 
 1928 d 
1928年(昭和3)5月-7月58第五回満州調査(満州北部、遼東半島)
外務省対外文化事業部補助(夫人きみ子、娘幸子同行)
5/14 東部シベリアの調査を終えて大連(夫人きみ子到着)
5/15 奉天[=瀋陽]-四平街[=四平市]
5/21 鄭家屯[=双遼](オボ山の調査)-ハルビン-マンチュリ[=満州里]-5/30 ハルビン(阿城県金の上京調査)-6/3 長春-6/4 書林(2日間滞在)-6/7 老爺嶺(鉄道はここまで、あとは馬で行く、泥濘の山道)-蛟河-二道河子-6/8 六道河子-大沙河(落葉松の森林地帯、湿地)-威虎嶺-(森林の谷地、鈴蘭が咲いている)-黄泥河-太平嶺-6/11 敦化(金代の古城、山城子の山城、吟爾巴山麓の遺跡等の調査)-6/23 吉林-長春-奉天-6/25 大連-6/26 鞍山(苗園墓群の発掘、千山遺跡の調査、メンヒル)-7/7 遼陽-7/9 大連-7/1   帰国
 1928 b 
 1928 c 
 1928 e 
 1929 
 1943 
1930年(昭和5)8月-12月60第三回蒙古調査(遼東半島、ワールマンハ、遠の皇都)
東方文化学院東京研究所における調査(夫人きみ子同行)
8/21東京発-8/23 神戸より乗船-8/26 
大連-8/27 遼陽(遼代古塔の調査)-8/31 普蘭店(ドルメン調査)-9/1 金州(井山石窟仏の調査)-9/2 大連-9/4 奉天-9/5 鄭家屯[=双遼](すぐ蒙古に入るつもりが、雨で道が悪く、その上高梁の収穫前で馬賊が出没するとの情報で、暫く満鉄沿線の調査をすることとする)-9/7 関原(古塔の調査)-9/10 鉄嶺(古塔の調査)-奉天(古塔の調査、博物館見学)-9/14 四平街[=四平市]-9/16 鄭家屯(オボ山遺跡調査、蒙古行準備)-9/22 通遼-(以下11月までワールマンハ、達の皇都=巴林左旗等の調査)-12/1四平街-12/2 奉天(どこへ行っても"シナ人"と間達えられる)-12/3 海城-12/4 析木城(ドルメンと古塔の調査)-12/5 海城-12/6 鞍山(新しく発見された隆昌の画像石墓の情報収集、内一日奉天日帰り博物館見学)-12/9 隆昌州(情報収集、遼代画像石墓の調査)-12/12 鞍山-12/14 鄭家屯(預けてあった荷物を取りに戻る)-12/15 奉天-12/17 大連-12/18 大連発-12/21 東京
 1932 a 
 1932 d 
 1933 a 
 1933 b 
 1933 e 
1931年(昭和6)9月61第六回満州調査(遼陽都城発掘)
夫人きみ子、息子龍次郎、東方文化学院東京研究所嘱
託中川徳治同行
大連(満鉄沿線調査中、満州事変勃発)-遼陽(23日間遼東京府の土城発掘)
 1931 
 1946 b 
『鳥居龍蔵全集』
付録月報11
1932年(昭和7)7月-9月62第七回満州調査(奉天、朝鮮北部、遼陽)
満州国成立にともない文部省映画撮影の指導者として東方文化学院東京研究所の派遣(娘緑子、息子龍次郎同行)7/28 門司港発-大連-奉天[=瀋陽](清寧宮、東陵、北陵等の撮影、湯玉麟の子息がワールマンハの契丹皇 陵より盗掘した遼代石碑を湯氏宅で調査)-8/14 朝鮮開城(高麗文化を調査)-京城-慶州-8/25 奉天-大連-奉天-8/29 遼陽(調査)-奉天-鄭家屯[=双遼]-奉天-9/30 アメリカ丸で大連を発つ-10/3 東京
 1932 e 
 1932 h 
1933年(昭和8)8月-12月63第八回満州調査(契丹文化の研究、遼中京府、ワールマンハの調査)
外務省対支文化事業部の補助による(夫人きみ子、娘緑子、息子龍次郎同行)
8/3 東京発-大連-奉天[=瀋陽]-錦県[=錦州市]
(遼の古塔の調査)-義県(10日間程遼代の古塔・石碑・
大仏寺、北魏の万仏洞等の調査)北票-朝陽(遼の興中州、道代の古塔・遺跡等の調査)-凌源-平泉-承徳(数日間調査)-9/15 平泉(これより先土匪多く蒙古騎馬兵の護衛がつく)-寧城県老蛤河畔大寧城(遼の中京、17日間調査)-10/4 赤峰(6日間調査)-林西-10/17 白塔子-10/21 ワールマンハ(15日間遼代壁画墓の調査、大興安嶺山中にテント生活、吹雪)-林西-11/11 赤峰-11/22 烏丹城[=翁牛特旗](元代石碑の調査)-赤峰-11/27 朝陽(調査、整理、龍次郎発熱)-12/14 錦州(義県大仏寺調査)-12/16 大連-12/18 新京[=長春]-12/19 奉天-12/20 大連-12/21ウラル丸で大連を発つ-12/24 東京着
 1937 a 
 1932 e 
 1934 d 
 1936 a
 1936 b
 1939 
 1943 
1935年(昭和10)11月-12月65第九回満州調査(遼東半島、北京)
東方文化学院研究所の派遣(夫人きみ子、息子龍次郎同行)
11/8 東京発-11/9 吉林丸にて神戸発-11/12 大連
11/13 奉天[=瀋陽]-11/15 新京[=長春]-11/16 奉天-溝村子-11/17 北鎮(遼代双塔、東丹王陵等の調査)-11/26 溝幇子-11/27 奉天-11/28 鞍山-12/1隆昌州(匪族を避けながら遼代画像石墓の調査cf.1932 a)-12/2 奉天-12/6 北平[=北京](天寧寺、白雲観、八里庄古塔等の調査)-12/4 蔚県(独落寺調査)-12/16 北平-12/23 山海関-12/25 大連-12/26 熱河丸で大連を発つ
1935
1936 c
1937 a
1937 b
1942


注:地名のうち、現在の地名と異なる場合は[=]で現在名を示した。


■満州・蒙古関係著書・論文目録

1896 a (明治29))「遼東半島」『太陽』2巻6、7、9、11、12、14、15号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:573-597
1896 b (明治29)「遼東半島に於ける高麗の考古学上の事実」『史学雑誌』7編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:598-603
1905 (明治38) 「満洲調査復命書」『官報』12月9日付・『史学雑誌』17編2・3・4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:534-542
1905-06 (明治38-39)「満洲に於ける人類学的視察談」『東京人類学会雑誌』237・8号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:551-567
1906 (明治39) 「満文字の地図と職貢図」『学燈』10巻1号;『鳥居龍蔵全集』第10巻:532-534
1907 a (明治40)「入蒙飛信」『日本美術』95号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:567-569
1907 b (明治40)「蒙古語に就て」『東京人類学会雑誌』251号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:395-398
1907 c (明治40)「我国のメルヘン(Märchen)と蒙古のメルヘン(Märchen)とに就て」『東亜の光』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:475-481
1907 d (明治40)「日本語と蒙古語の親族的関係」『太陽』13巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:398-405
1907 e (明治40)「蒙古の楽器」『日本美術』100号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:49ト493
1907-08 (明治40-41) 「日豪類似語に就て 第一、二、三、四回」『史学雑誌』18編11号-21編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:405-471
1908 (明治41) 「満洲の石器時代遺蹟と朝鮮の石器時代遺蹟との関係に就て」『東京人類学会雑誌』262号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:546-552
1909 a (明治42)「蒙古旅行談(興安嶺及びシラムレン方面)」『東洋時報』124-5;『鳥居龍蔵全集』第2巻:545-566
1909 b (明治42)「シラムレン及興安嶺地方旅行談」『地学雑誌』21巻245号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:545-550
1909 c (明治42)「奈曼族の風俗」『東京人類学会雑誌』278号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:520-521
1909 d( 明治42)「蒙古風俗一斑」『東亜之光』4巻5・6・7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:482-490
1909 e (明治42)「蒙古老蛤河水源地の古砦跡」『東京人類学会雑誌』279号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:519-520
1909 f (明治42)「有史以前の満洲の民族」『中央公論』24年7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570-573
1909 g (明治42)「輿安嶺附近に於ける薩満教の遺風」『東京人類学会雑誌』280号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:495-500
1909 h (明治42)「マルコポロ旅行記中のNatigayとOngotに就て」『東京人類学会雑誌』281号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:607-610
1909 i (明治42)「南満洲旅行談」『東洋時報』131・132号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:567-595
1909 j (明治42)「マルコポロ旅行記に見ゆる蒙古人の風習」『中央公論』24年10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:521-523
1909 k (明治42)「老鉄山麓の貝殻墓と其遺物」『東京人類学会雑誌』285号;『鳥居龍蔵全集』第8巷:617-618
1910 a (明治43)「シラムレン流域及興安嶺方面に於ける東胡民族の遺跡」『地学雑誌』22年256・257・258号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:500-518
1910 b (明治43)「洞溝に於ける高句麗の遺跡と遼東に於ける漢族の遺跡」『史学雑誌』21編5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:603-617
1910 c (明治43)『南満洲調査報告』東京帝国大学刊;『鳥居龍蔵全集』第10巻:1-165
1911 a (明治44)「遼の上京と其遺品」『國華』21第248・253号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:576-587
1911 b (明治44)『蒙古旅行』博文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:ト284
1913 (大正2)「満洲より北朝鮮の旅行」『東洋時報』179・180号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:620-637
1914 a( 大正3)「考古学民族学研究・東蒙古の原住民」Etudes Archéologiques de Ethnologiques.Populations Primitives dela Mongolie Orientale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:121-197
1914 b (大正3)「人類学研究・満州族」Etudes Anthropologiques.Les Mandchoux.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:199-229
1915(大正4)「考古学民族学研究・南満洲の先史時代人」Etudes Archéologiques et Ethnologlques.Populations Préhistoriques de la Mandchourie Méridionale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:231-309
1917-18 (大正6-7)「支那周囲の民族」『東洋時報』231・232号;『鳥居龍蔵全集』第12貴:650-664
1920 a (大正9「西伯利亜の有史以前(上)」『人類学雑誌』35巻1号:『鳥居龍蔵全集』第7巻:516-531
1920 b (大正9)「土俗学上より観たる黒龍江畔の民族」『人類学雑誌』35巻3・4合併号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:560-580
1920 c (大正9)「東部西比利亜旅行談」『東洋時報』259・260・261号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:664-677
1921 (大正10)「満蒙の有史以前(学位記)」『官報』大正10年10月5日;『鳥居龍蔵全集』第8巻:525-528
1922 a (大正11)『北満洲及び東部西伯利亜調査報告』(朝鮮総督府古蹟調査特別報告第二冊)朝鮮総督府;『鳥居龍蔵全集』第8巻:259-280
1922 b (大正11)「文献史上より遡り観たる南満洲最古の住民」『人類学雑誌』37巻10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:552-569
1922 c (大正11)「文献史上より遡り観たる東蒙古最古の住民」『人類学雑誌』37巻12号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:471-475
1923 (大正12)「北満洲東間島にある堡寨と竪穴」『人類学雑誌』38巻5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570
1924 (大正13)『人類学及び人種学上より見たる北東亜細亜』同書店;『鳥居龍蔵全集』第8巻:1-258
1926 a (大正15)『極東民族 第一巻』文化生活研究会;『鳥居龍蔵全集』第7巻:99-317
1926 b (大正15)「蒙古に於けるアメリカ学術探検隊の仕事に就いて」『太陽』32巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:493-495
1927 a (昭和2)「鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』跋文」昭和6年六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第8巻:524-525
1927 b (昭和2)「満蒙通信 其一、其二」『武蔵野』10巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:569-571
1928 a (昭和3)『満蒙の探査』萬里閣書房;『鳥居龍蔵全集』第9巻:285-393
1928 b (昭和3)「西比利亜・満蒙通信」『武蔵野』11巻5・6号・12巻2号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:617-623
1928 c (昭和3)「ネストリアン教の十字発見」『中央公論』43年9号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:689-690
1928 d (昭和3)「満蒙に於ける人類学上の研究に就きて」『啓明会講演集』25回;『鳥居龍蔵全集』第6巻:559←576
1928 e (昭和3)「画像石のある古墓」『中央公論』43年10号;『鳥居龍蔵全集』第12巷:690-691
1929 (昭和4)『西比利亜から満蒙へ』大坂屋号書店;『鳥居龍蔵全集』第10巷:167-217
1931 (昭和6)「鳥居研究員遼陽発掘報告講演」『東方学報』東京1号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:618-620
1932 a (昭和7)『満蒙を再び探る』六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:395-542
1932 b (昭和7)「南満洲および東蒙古の新石器時代遺物」Restes Néoithiques de la Mandchourie Méridionale et de la Mongolie Orientale.第一回極東先史学者学会研究発表:『鳥居龍蔵全集』第5巻:657-658
1932 c (昭和7)「満洲国に於ける五大遺跡に就て」『歴史教育』7巻2号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:542-546
1932 d (昭和7)「猴王孫呉空(遼代の壁画)」『武蔵野』18巻2号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:602-604
1932 e (昭和7)「満洲だより」『武蔵野』19巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:576-578
1932 f (昭和7)「朝鮮・満洲の磨製石器に就て」『上代文化』8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:643-646
1932 g (昭和7)「満洲国より武蔵野へ」『武蔵野』19巻4号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:578-579
1932 h (昭和7)「私共の今回旅行した地方と其の仕事」『ドルメン』1巻8号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:654-656
1932 i (昭和7)「我が国と契丹文化の関係」『セルパン』22巻16号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:650-654
1933 a (昭和8) 「遼の皇都とその陵墓」『国際写真情報』11巻1号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:682-684
1933 b (昭和8) 「契丹の陵墓とその陵碑に就いて」『上代文化』9号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:609-616
1933 c (昭和8) 「ホロンパイルと熱河について」『歴史公論』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:528-532
1933 d (昭和8) 「私と熱河省の研究に就て」『ドルメン』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:532-534
1933 e (昭和8) 「東蒙古に存在する金剛界曼陀羅の磚塔」『中央美術』(復興)1号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:622-628
1934 a (昭和9) 「満洲・蒙古を探る」『中央公論』49年2号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:693-700
1934 b (昭和9) 「近頃発見せられた契丹文字に就て」『書物展望』4巻3号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:677-681
1934 c (昭和9) 「遼代陵墓内の壁画に就て」『中央美術』8号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:595-599
1934 d (昭和9) 「契丹の残した遺蹟の探査に就て」『歴史科学』3巻4号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:618-622
1935 (昭和10) 「満洲北支通信」『武蔵野』22巻12号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:579-580
1936 a (昭和11)「遠の王陵壁画に就て」『ミネルバ』4号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:600-602
1936 b (昭和11)『考古学上より見たる遼之文化図譜 第一冊~第四冊』東方文化学院東京研究所刊
1936 c (昭和11)「満洲陵墓と景教との関係に就て」『史学雑誌』47巻6号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:604-605
1936 d (昭和11)『満蒙其他の思ひ出』岡倉書房刊;『鳥居龍蔵全集』第12巻:1-136
1937 a (昭和12)『遼の文化を探る』章華社刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:369-556
1937 b (昭和12)「景教に関する画像石」『考古学雑誌』27巻2号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:605-609
1939 (昭和14)「遼の中京城内に存在する石器時代の遺蹟」『東方学報』東京9冊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:587-595
1940 a (昭和15)「北魏時代の下花園石窟寺」A Pei Wei Buddhist Cave Temple atHsia-Hua-Ytian.Occasional Papers,Harvard-Yenching Institute,Peking Office 1940;『鳥居龍蔵全集』第5巻:671-680
1940 b (昭和15)「契丹黒山嶺考」『燕京学報』28期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:33-46
1941 (昭和16)「契丹之角砥」『燕京学報』29期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:45-56
1942 (昭和17)『遼代の画像石墓』Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty.Harvard-Yenching Institute,1942;『鳥居龍蔵全集』第5巻:555-638
1943(昭和18)「契丹と中央亜細亜との服装の類似に就て」『中央亜細亜』2巻2期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:628-641
1944(昭和19)「再び契丹と中央亜細亜との服装と建築の類似に就て」『中央亜細亜』3巻1・2期合刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:642-650
1946a(昭和21)「石面彫刻の渤海人の風俗とササン・ベルシア式胡瓶」石面彫刻之渤海人風俗与薩珊式胡瓶『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:21-31
1946b(昭和21)「ササン・ペルシア様式の瓶と渤海人の風習」Vases of the Sas-Sanian Style and the Ways and Manners of the Pohai People.『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:31
1946c(昭和21)「中国支石墓(石棚)の研究」中国石棚之研究『燕京学報』31期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:1-19
1947 (昭和22)「奴児干都司考」『燕京学報』33期;『鳥居龍蔵全集』第6巷:295-350
1948 a(昭和23)「金上京城仏寺考」『燕京学報』34期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:273-293
1948 b(昭和23)「金の上京城及びその文化」金上京城及其文化『燕京学報』35期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:209-272
1949 (昭和24)「遼の上京城内遣存の石人考」遼上京城内遺存之石人考『燕京学報』36期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:57-81
1950 (昭和25)「遠の中京城内遣存の二石像考」遼中京城内遣存之二石像考『燕京学報』38期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:83-108
1951 (昭和26)「遼上京城の南、伊克山上の遼代仏剃」遼上京城以南伊克山上之遼代仏刺『燕京学報』40期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:109-207
1953 (昭和28)『ある老学徒の手記』朝日新聞社;『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-342



Page06

高知工科大学・総合研究所 博物資源工学センター 鳥居龍蔵資料アーカイブ推進協議会
〒782-8502 高知県香美市土佐山田町宮ノ口185 Tel:0887-53-1112    Fax:0887-57-2000