鳥居龍蔵の世界 Page05



鳥居龍蔵の台湾調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。


土田 滋・姫野 翠・末成道男・笠原政治


鳥居龍蔵は、日本における海外学術調査の先駆者というべく、台湾・苗・満州・朝鮮・蒙古・千島など、数多くの現地調査を行なっている。日本統治が始まった直後という土地も多いから、厳密には外国とは言えないにしても、実質上は外国となんら変わらなかっただろう。

その中でも台湾調査は鳥居のもっとも初期の海外調査でもあり、調査期間ものべ23ケ月、つまりほぼ2年間という長期にわたるものであった。はじめてカメラを調査に利用し、帰国後かならずモノグラフをまとめるなど、鳥居自身ばかりではなく、その後の日本における学術調査法の基礎を築いた時期でもある。鳥居自身による論文や読み物の数も、台湾関係が非常に多い。

鳥居の台湾調査は4 回におよぶ。それぞれの調査がどのような日程で行なわれたのかを、いろいろな資料をもとにして表にまとめてみた。残された写真の判定にも役にたつと考えたからである。しかしながら詳細に検討すれば鳥居自身の書かれた日付にも異同があり、いずれが正しいものか、日記が残されていない今となっては確定しがたい。例えば、第二回台湾調査は有名な紅頭嶼行であるが、文献1897 h と1897 j では1896年(明治29年)10月21日基隆発となっているのに、文献1898 c,1899 d ,1910では10月22日基隆出港とあるが如きである。しかし1日や2日(まれには10日)のくい違いはたいした意味を持たないであろう。ここでは便宜上もっとも早く出版された論文の日付にしたがうことにした。

地名や蕃社名の比定も困難なことが多い。例えば、第三回調査では南部台湾の「巴仕墨各社」を訪ねたとある。パイワン族部落であることは確かだが、にわかにどことも特定しがたい。あるいは鳥居自身の思い違いではないかと想像される場合もある。たとえば第四回調査の最後のあたりで、羅東近くの有史庄とあるのはおそらく阿里史庄のことであろう。「阿里」を「有り」と記憶されたのに違いない。ともあれ現在の地名と異なる場合は、現在名を角括弧に入れ、=で示しておいた。本来ならばそのように比定したその根拠をも示すべきであろうが、紙数の都合で省略した。筆者の同定が常に正しいとは限らない。識者のご指摘を侯ち、それまでは誤りの少なからんことを祈るのである。

なお台湾関係の写真判定には、瀬川孝吉先生のご協力を得た。ここに記してあつく御礼申し上げる。馬淵東一先生をも頼りにしていたのだが、ご健康すぐれず、とこうしているうちに、にわかに病状あらたまり、ついに馬淵先生のご意見を伺う機会は永遠に失われてしまった。まことに残念なことである。心からご冥福をお祈り申し上げる次第である。

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[台湾の民族分布図と鳥居龍蔵の撮影地域][鳥居龍蔵の台湾調査地図]


■台湾調査旅程
[1896年(明治29年)-1900年(明治33年)]

年 月調  査文 献
1896年(明治29)8月-12月26第一回台湾調査(東海岸)
花蓮港上陸-䓫萊平野・䓫萊付近の山上(木瓜・太老閣)山下(太巴塱・抜仔庄[=瑞穂](阿眉)の蕃人調査-秀姑巒渓をさかのぼり-璞石閣[=玉里]・タイ=大坡[=池上]-ブヌワン[=ブヌン]-卑南-知本渓-海岸-花蓮港
 1899 c
 1910
1897年(明治30)10月-12月27第二回台湾調査(紅頭嶼)
10/1、12 淡水河沿岸の遺跡調査(八芝蘭[=士林]、円山など)
10/21 打狗丸にて基隆発-10/25 紅頭嶼[=蘭嶼]着-12/29まで調査のため紅頭嶼滞在
 1899 c
 1897 j
 1899 d
1898年(明治31)7月-12月28第三回台湾調査(知本渓以南の遺跡調査)
車城に上陸-恒春-山下のテラソック[=猪勝束社]・シャバリ[=射馬里社](パイワン、アミ、大商社、平埔、及びシナ人と蕃人の雑種の調査)-牡丹社-牡丹中社-家新路-牡丹路-巴仕墨各社-楓湖渓-上蕃社-彷藔-恒春
 1899 c
1900年(明治33)1月-9月 29-30 第四回台湾調査
明治32年12月下旬東京発。
1/6 基隆着-台北-基隆-澎湖島-台南-打狗[=高雄]-東港-枋藔-水底藔-帰化門社-水底藔-
1/25 潮洲庄(支那人部落)
1/28 内社[=ライ社]・コンロンナウ[=クナナオ社」着。(祭りのため5日間滞在)
2/3 餉潭庄[=新埤鎮餉潭荘](平埔)(祭りだった)
2/5 ブロック社[=プツンロック社]-ボガリ社[=ボンガリ社](首狩りが盛ん)-パイルス社-2/8 餉潭庄-
2/8 餉潭庄-
2/9 潮州庄-プンテ(彫刻が盛ん)-
2/16 阿猴辧務署[=屏東]
2/17 カラボ[加蚋埔=屏東県高樹郷泰山村](平埔調査)-口社[=屏東県三地郷、パイワン族]
2/20 蕃薯藔[=旗山](熟蕃、広東人)
2/23 山杉林(熟蕃)-六亀里(熟蕃)下淡水渓上流-セブタン[ブヌン族群蕃]、スンガウ[=四社蕃=サアロア]-カナッブ[=カナカナブ]
3/1 蕃薯藔[=旗山]-台南-嘉義-阿里山蕃[=ツォウ族]-チブラ社[=トフヤ社]
3/5、6 ヤプグヤナ山-東埔(ブヌン族)ブヌン2人連れ新高山に登る-
4/11 新高山山頂(3つの峯のある写真があるらしい)-八通関-東埔-集々街-林圯埔[=竹山]-雲林-北斗-彰化-台中-東勢角(タイヤル調査)(写真)
5/17 台中-彰化・南投-集々街-水社湖(サオ族調査)-マイバラ社-埔里社(調査)
8/1 埔里社(午前8時出発、森鞆次郎・安井萬吉・楠氏・ブヌン蕃交換人予備歩兵少尉高羽氏・北蕃通事近藤氏)-急坂-自葉坑(熟蕃)-魚池庄にて昼食(土人婦女の頭髪珍しければ撮影)-途中雨-5時、木履囒庄着。
8/2 8時半、木履囒庄発(近藤氏と別れる)-雨-長藔頭庄-大林庄-司馬安庄-猫囒庄-水社庄(サオ族)-10時、水社出発-雨止む-頭社[頂社(?)](サオ族)昼食-5時半、秡仔埔[=南投県水裏郷民和村]着。
8/3 晴天(羽・楠と別れる、残ったのは鳥居・森・安井)
8/4 人倫社(ブヌン)より人夫、2時、秡仔埔出発-濁水渓を渡る-6時、人倫社(郡蕃)[=南投県信義郷大和村]着(社長アバリ)
8/5 7時起床、午後1時濃霧晴れる。山上より山麓の頭社・水社・埔里社の山々・濁水渓が見え、海岸もありありと見える(撮影)-8/6 人倫社出発-(濁水渓を渡るところを撮影/鳥居・森・安井・土人通事2人・蕃人7人)-社仔埔で昼食-毛註社着、しかし通事・陳水連応ぜず-やむなく秩仔埔へ戻る。
8/6 人倫社出発-(濁水渓を渡るところを撮影/鳥居・森・安井・土人通事2人・蕃人7人)-社仔埔で昼食-毛註社着、しかし通事・陳水連応ぜず-やむなく秡仔埔へ戻る。
8/7 秡仔埔にて-ブヌンの(?)撮影
8/8 森は通事3名、蕃人15人連れて帰る-
8/9 秡仔埔出発-3時、社仔庄、泊まり-
8/10 社仔庄発-大坪-集々街-スバリに会う-
8/11 集々発-大坪-社仔庄-
8/12 社仔庄発-集々街-(鳥居・森・安井・スバリ、その他女子供あわせて16名)-社仔埔-濁水渓を渡る-牛轀轆庄-
8/13 5時、牛轀轆庄発-陳有蘭渓-4時、ナマカマ社近辺で野宿用意-
8/14 5時、出発-3時、東埔-
8/15 (粟収穫後の)蕃人の正月、調査-
8/16 東埔調査-
8/17 暗、東埔調査、撮影-
8/18 雨、東埔調査、撮影-
8/19 晴-
8/20 スバリがマラリア発病のため、鳥居・森・安井・蕃人6人、計9人で出発
8/21 5時出立前、露営の前に立てるところを撮影-10時、八通関、雲がかかって撮影は失敗-4時、1万600尺、来た方面(南西)を撮影-野宿-
8/22 東方の璞石閣付近を望みたる所を撮影-4時半、出発-タルナ社[=タルナス社](ブヌン蕃社)着(スレートを使う)-台東の璞石閣[=玉里]-花蓮港
9/10 蘇澳-羅東-有史庄[=阿里史庄]-天送埤(有醇画蕃)-渓頭・南澳にてタイヤル族調査-宜蘭平原(熟蕃調査)-三貂嶺-
9/21 基隆着。
 1901 j






















 1901 k

 1901 k











































 1910


■台湾関係著書・論文目録

以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第11巻(1976年 朝日新聞社)によって作製した。 写真判定の際の参考のため倉卒の間にまとめたので、同年の出版物の中での順序付けには甚だ遺憾な点が多い。しかしすでにこの順にしたがってコメントをつけてしまったので、今この段階で訂正をほどこせば混乱をいっそう助長するであろうことをおそれ、敢えてこのままにしておくことにした。諒とされたい。

1896 (明治29)「鳥居龍蔵氏の近信」『徳島日日新聞』明治29年9月4日;『鳥居龍蔵全集』第11巻:459-460
1897 a (明治30)「台湾生蕃地探検者の最も要す可き知識」『太陽』3巻15号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:408-415
1897 b (明治30)「東部台湾、阿眉種族の土器製造に就て」『東京人類学会雑誌』第135号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:561-572[絵][写真](重要)
1897 c (明治30)「東部台湾に於ける各蕃族及び其分布」『東京人類学会雑誌』第136号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:464-485[絵](重要)
1897 d (明治30)「東部台湾ニ棲息セル平埔種族」『東京人類学会雑誌』第132号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:521-525[写真](重要)
1897 e (明治30)「鳥居龍蔵氏よりの通信 坪井正五郎氏へ」『東京人類学会誌』第141号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:404-405[給]
1897 f (明治30)「東部台湾諸蕃族に就て」『地学雑誌』9集104・105巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:485-505[絵](重要)
1897 g (明治30)「有蘇蕃の測定」『地学雑誌』9集107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:553-554
1897 h (明治30)「台湾通信 紅頭嶼行」『地学雑誌』9輯107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:592-594
1897 i (明治30)「台湾に於ける有史以前の遺跡」『地学雑誌』9集107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:397-399
1897 j (明治30)「鳥居龍蔵氏よりの通信(坪井正五郎氏へ)」『東京人類学会雑誌』第141号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:404-405
1898 a (明治31)「紅頭嶼の土人は如何なる種族より成る乎」『地学雑誌』10輯116巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:579-584[写真]
1898 b (明治31)「紅頭嶼通信」『地学雑誌』10輯109巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:594-597
1898 c (明治31)「台湾人類学調査略報告」『東京人類学会雑誌』第144号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:505-509
1898 d (明治31)「鳥居龍蔵氏の蕃人調査」『徳島日日新聞』明治31年12月10日;『鳥居龍蔵全集』第11巻:460-461
1898 e (明治31)「蕃薯寮萬斗社生蕃ノ身体測定」『東京人類学会雑誌』第146号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:602-605[絵](重要)
1898 f (明治31)「台湾基隆ノ平埔蕃ノ体格」『東京人類学会雑誌』第153号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:549-553[絵]
1899 a (明治32)「台湾東南部の人類学的探検」『東京人類学会雑誌』第155号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:462-464
1899 b (明治32)「台湾阿眉蕃ノ弓箭放射法二就テ」『東京人類学会雑誌』第161号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:572-575[絵](重要)
1899 c (明治32)「南部台湾蕃社探検談」『地学雑誌』11集125・126巻:『鳥居龍蔵全集』第11巻:415-422(重要)
1899 d (明治32年3月)『人類学写真集 台湾紅頭嶼之部』東京帝国大学理科大学:『鳥居龍蔵全集』第11巻:329-353[写真](重要)
1900 a (明治33)「新高山地方に於ける過去及び現在の住民」『東京人類学会雑誌』第170号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:575-579[絵]
1900 b (明治33)「埔里社方面にて調査せし人類学的事項」『東京人類学会雑誌』第174号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:525-529(重要)
1900-01 (明治33-34)「台湾埔里社霧社蕃の言語(東部有黥面蕃語)」『東京人類学会雑誌』第176-178号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:529-539「語彙」(重要)
1901 a (明治34)「台湾阿里山蕃の土器作り」『東京人類学会雑誌』第178号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:558-560[絵](重要)
1901 b (明治34)「東部有黥面蕃語ト苗族語ノ比較」『東京人類学会雑誌』第179号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:539-541「語彙」(重要)
1901 c (明治34)「台湾埔里社(霧社)蕃(東部有黥面蕃)の神話」『東京人類学会雑誌』第180号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:557-558
1901 d (明治34)「台湾台東方面の有黥面蕃語と霧社蕃語」『東京人類学会雑誌』第181号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:542-546「語彙」(重要)
1901 e (明治34)「紅頭嶼土人の頭形」『東京人類学会雑誌』第182号:『鳥居龍蔵全集』第11巷:584-589
1901 f (明治34)「埔里社山上万大社の蕃人は東部黥面蕃にあらず」『東京人類学会雑誌』第183号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:546-549「語彙」(重要)
1901 g (明治34)「黥面蕃女子の頭形」『東京人類学会雑誌』第18『鳥居龍蔵全集』第11巻:555-557
1901 h (明治34)「台湾に於ける小人の口碑」『東京人類学会雑誌』第188号;『鳥居龍蔵全集』第11巷:597-598
1901 i (明治34)「紅頭嶼土人の身長と指極」『東京人類学会雑誌』第189号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:589-592
1901 j (明治34)「台湾蕃地探検談」『地学雑誌』13集146・147・148巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:422-431(重要)
1901 k (明治34)「台湾中央山脈の横断」『太陽』7巻9・10・12・13号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:431-459(重要)
1902 (明治35年7月)『紅頭嶼土俗調査報告』東京帝国大学;『鳥居龍蔵全集』第11巻:281-328[絵](重要)
1905 (明治38)「台湾生蕃に就ての参考書」『東京人類学会雑誌』第226号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:405-408
1907 (明治40)「台湾の小人はニグリトーなりしか」『東京人類学会雑誌』第252号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:598-601
1909 (明治42)「台湾各蕃族の頭形論」『東京人類学会雑誌』第282-285号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:509-521
1910 (明治43年12月)『人類学研究・台湾の原住民(一)序論(Etudes Anthropologiques.Les Aborigènesde Formose.(1r Fascicule.)Introduction)』東京帝国大学理科大学紀要第28冊第6編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:1-74[写真](重要)
1911 (明治44)「台湾台北円山貝塚」『人類学雑誌』第27巻1号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:403-404[写真]
1912 (明治45年1月)『人類学研究・台湾の原住民(二)ヤミ族(Etudes Anthropologiques.Les Aborigènes de Formose.(2e Fascicule.)Tribu Yami)』東京帝国大学理科大学紀要第32冊第4編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:75-120[写真][絵](重要)
1926 (大正15)「台湾の古代石造遺物に就いて」『民族』1巻3号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:399-403[写真]
1953 (昭和28)『ある老学徒の手記 考古学とともに六十年』朝日新聞社



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