■鳥居龍蔵博士およびその写真資料について
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
香原志勢
東京帝国大学の人類学教室の初代主任教授であった坪井正五郎博士は、人類学の創始者にふさわしく、人類研究に際し広範な興味を抱いていたが、後進の指導や啓蒙に精力を傾けた上、比較的短命な人生を過ごされたため、フィールドに出る機会は必ずしも多くなかった。これに対し、鳥居龍蔵博士は坪井教授の意志をよく継ぎ、まさにフィールド調査の申し子のように、学者としての人生を国内、国外における現地調査にあてられた。かたわら、その著作は膨大なものとなっているが、今日、『鳥居龍蔵全集』全12巻、別巻1巻 (1975-77年 朝日新聞社)に纏められている。博士蒐集になる民族資料は永らく東京大学理学部人類学教室に保管されていたが、今日では、すべて国立民族学博物館に移管、保存されている。
鳥居博士の遺された遺産である同博士撮影の写真資料は前記人類学教室に保管されていた後、今日では、東京大学総合研究資料館に移管されているが、写真本来の性質のため、昨今、急激に損傷が目立ち、写真乾板はカビにより侵蝕され、またアルバムなどに貼付された写真も黄褐色に変色し、さらに、これらの一部は修復不能にまでいたっており、関係者の憂慮するところであった。
幸い、昭和63年度・平成元年度文部省科学研究費補助金総合研究(A)(課題名「鳥居龍蔵博士撮影の日本周辺諸民族写真・乾板の再生・保存・照合」研究代表者:香原志勢)の交付を得て、これら写真類の再生をなすことができるようになり、今後の研究者の用にも立つべく、保存することができた
。
鳥居龍蔵博士の写真記録は本邦における人類学・民族学の野外調査に使用された写真の嚆矢となるものであり、日本写真史の面でも貴重な資料である。今日では、人類学・民族学の分野では、写真記録はフィールド・ノートと同じ意味をもつ基礎資料であり、カメラもフィルムも軽量で携帯に適し、撮影に際してもとくに技倆をもたずして、ある程度の成果を得ることができるが、往時は、写真撮影は大がかりなものであり、写真機は大型で、荷としてかさばり、また乾板はガラス製であったため、割れやすい上に、重く、相当程度の枚数を撮るためには、大変な量の荷を背に担がねばならなくなり、一方、撮影技術も熟練を要し、速写性はなかった。
しかし、本邦に写真機が導入されるや、博士はその意義を十分に評価し、野外調査に際しては専門の写真技師を同行させ、写真記録を得た。まさに、慧眼のいたりというべきであろう。
博士の時代においては、日本および周辺諸国の人類学、民族学の上での写真記録は、ヨーロッパの学者によるものを含めても数少なく、一方、近代化が急激に進んでいるため、人々の服装、風俗、景色は、今日では推測し難いほど、激変している。そういう状況では、鳥居博士による写真記録はきわめて貴重であるといえよう。
博士が国内、国外で調査旅行を重ねた時期は、19世紀末から20世紀前半であるが、この時期の日本は明治維新に伴う社会変動がようやく鎮静化し、国民の関心も次第に海外、特に東アジアに向けられていた時代に相当する。こういう中にあって、博士は物質的な国益を求めるわけでもなく、周辺諸民族の生活の実態、文化のあり方を知識として探求するために、率先してこれらの土地を渉猟したのである。土地によっては治安は好ましくなく、旅行者として生活は厳しかったが、博士は不動明王のごとく、これらを観慮することなく、調査研究に邁進した。満州(中国東北部)や蒙古(モンゴル)のような、匪賊の出没する辺境にもでかけた。事実、保存されている写真の中には、陸軍将校が同席していたり、武装した兵士の立っているものもあるが、博士自身は反権力の学者であり、決して権力をかさにした調査ではなかった。
その一例として、内蒙古の調査を了えて、博士は西烏珠?沁(ウジュムチン)の護衛兵を伴い、外蒙古に入ろうとしたが、越境は許されなかった。そこで、博士は「自分たちは嬰児まで伴って、遠路ここまでやってきた日本の平和的な学者夫妻である。それなのに、同じ仏教徒である蒙古人が入境を拒むのは何事か」と一喝した。外蒙古の役人はその勢いに態度を改め、内蒙古の護衛兵を除く博士たちを迎え入れた。後に喀爾喀(ハルハ)王府は博士らを手厚く接待したという。
このような危機を博士は幾度も切り抜けたらしい。博士の滞在する村の隣村を襲っても、匪賊は博士を襲うことはなかった。博士をしてここまで到らしめたのは、一つにはその学問愛であり、学問に対する使命感であった。博士はいわゆる俗界を超えた学者であり、時には山高帽を被ったまま、旅舎の風呂につかっていたこともあったという。そのため、調査にあたって、凡なる随伴者は耐えられず、しばしばメンバーは代わったと伝えられているが、そのたびに協力したのがきみ子夫人と御子息、御息女の一家であった。
博士の調査旅行は当時の新聞のよく報ずるところとなり、そのロマン溢れる調査活動のスケールの大きさは日本国民の心情を揺さぶり、しばしば博士は国民的英雄の扱いを受けたという。それがそのまま日本の学界に定着していたならば、日本の人類学、民族学は、早くして欧米のそれに遜色ないものとなったであろうが、遺憾ながら、さまざまな理由でそのように事態は発展しなかった。
博士を生んだ徳島県の東隣りの和歌山県からは、民俗学、粘菌学の民間学者南方熊楠翁が現われ、また西隣りの高知県からは植物分類学の牧野富太郎博士が出ているが、鳥居博士を含め、これら三者は正規の学歴をもたないまま、各自それらの博物誌学を大成し、不世出の碩学、偉材として人びとの尊敬をかちえている。しかし、裏を返していえば、これら三方は十分な学歴を充されなかったればこそ、その奥に潜む本当の意味でも学問の味を知り、それだけに学問を愛し、崇め、そして、その学問的必然に従ったといえよう。とりわけ、鳥居博士は身辺に危機が迫っても、平然としていたというが、それは学問を背に負う信念があったればこそ、俗界の怖しさを体感することがなかったといえよう。
なお、写真記録を整理して気づくことは、かなり丹念なメモが付せられていることであり、また著作との関連で、これらを検討することができる。しかし、長年月の間には、そのメモが逸散したり、判じかねることがあり、それだけに、本館に残る他の資料を含めて、データベースの完成につとめる必要が感じられ、また、記録の仕方の簡単な整備法の確立の必要が痛感された。
本研究にあたり、鳥居龍蔵博士の御次男で、なお、1964年(昭和39年)に開館した徳島県立鳥居記念博物館の鳥居龍次郎先生には、ひとかたならぬ御世話と御指示を賜った。また、かつて台湾総督府に勤務され、御自身、膨大なる高砂族資料を所蔵、整理されている瀬川孝吉先生からも絶大な御協力を得た。あわせて御二方に、心からの謝意を呈したい。尚写真乾板のプリントと複製については塚原写真事務所、塚原明生氏の協力を得たことを感謝するとともに明記しておく。
本鳥居龍蔵写真資料カタログ4部作(東京大学総合研究資料館・標本資料報告第18・19・20・21号)は、昭和63年度・平成元年度文部省科学研究費補助金総合研究(A)(課題名「鳥居龍蔵博士撮影の日本周辺諸民族写真・乾板の再生・保存・照合」研究代表者:香原志勢 課題番号:63300013)および平成元年度文部省科学研究費補助金重点領域研究(課題名「先史モンゴロイド集団の拡散と適応戦略」領域代表者:赤澤威 課題番号:01643002)ならびに東京大学総合研究資料館平成元年度特別研究整理費の成果刊行である。
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