鳥居龍蔵とその世界 Page02



■鳥居龍蔵の足跡
「乾板に刻まれた世界・鳥居龍蔵の見た世界。東大展覧会カタログ。1991」より転載。


末成道男


鳥居の足跡が広大にわたることは周知のことであるが、その密度も濃い。これは、彼がその調査行程を文字通り足でこなしたからであり、交通機関の格段に発達した現在ですら、同じルートを辿ることは気の遠くなるような話である。したがって、海外だけでも30回余りにのぼる調査を、紙上で辿るだけでも容易ではないが、展開の仕方に一定の意志のようなものが働いていると仮定すると、その大筋は意外に分かりやすい。最初の海外調査地である遼東半島を起点とし、台湾、千島、沖縄、西南中国までほぼ南方を中心としてふれた針は、ある時期を境に北にふれ、満州、蒙古、シベリアへ、一時日本国内に向かったが、再び満蒙へ、そしてペルーへの第二の中断の後、最初の海外調査地遼東半島と関係の深い遼代遺跡を追って満州調査へと収儉してゆく。このような針の動きは、彼の研究内容、公的私的生活とどのように関わっているのであろうか。

鳥居の長い研究生活は、その内容により、

  1. 幼少期以来の芝居など江戸文化への興味から国漢を中心にした自習時代から、人類学の存在を知り上京する22歳まで。
  2. 人類学に入門し語学や自然科学吸収のための猛烈な努力を開始し、西南中国の調査を期にして自分の研究路線を見定め る34歳まで。
  3. 東大理学部の講師をつとめながら、東洋史的関心を強め、満蒙、朝鮮の調査を行っていた46歳まで。
  4. 国内を対象とした調査、著作刊行が中心であったか、東大を辞職後3年目に東方文化院研究員となって山東省の調査を始めた56歳まで。
  5. 例年のように満州調査を行っていた68歳。
  6. 北京燕京大学に招かれて滞在し帰国するまでの12年間。
と、ほぼ10-12年ごとに、特色をもった時期に分けられる。

大づかみに見ると、内容的には自然人類学を含む広義の人類学から、先史学・歴史考古学・民族学へ、地域的には南から北へ、学会・大学などの公的機関の要請による学術調査から自己の関心に基づく私的調査へという流れが認められる。上記の区分にそって、その足跡を紙数の許す範囲で追って行くことにしよう(注1)。

形成期 (-1892年(明治25年))(-22歳)
鳥居龍蔵の幼少期
徳島の煙草商店に生まれ、絵草子や錦絵などを眺めたり一人遊びを好んでいた鳥居は、小学校に入っても学校の雰囲気に馴染めず、中退し自学自修を始める。その内容は、中学相当の程度を目指す程度の高いもので、古典を含む国語、漢文、英語、生物、地理、歴史など専門の基礎をつけるという目的意識を持っていた。この効率的な独学は、彼の後の学問にも大いに役立ったが、幼少期に集団生活の中で教育を受けなかったことにはマイナス面も有ったと思われる。後に示される学歴コンプレックスは、単に形式的な学歴社会でのハンディという世俗的意味だけではなく、学校教育の意義に彼自身気づいて居たことにも由来するのではあるまいか。また、彼の人間関係においてしばしば見られるぎこちなさは、この時期に社会的距離感を体得する機会を持たなかったことと関係があると推測される。

鳥居龍蔵一家
16歳の時、坪井等の始めた人類学会の存在を知り、早速入会し、坪井に手紙を出して教えを乞う。2年後坪井の訪問を受け、人類学を志すようになった。彼にとっては全く新しい専門分野である人類学をマスターするため、和漢の教養を基にした東洋学から、欧米の人類学とくに、自然人類学の基礎を身につけることに目を向け始める。事実上の跡継ぎであった彼が、家業を捨て、見通しの全く立っていなかった人類学の勉学に賭け、上京したのは坪井との出合から3年後のことであった。

修業発展期1892年(明治25年)一1904年(明治37年)(22-34歳)
人類学に関連あると思われた専門的知識の吸収、調査の開始、自然科学から人文科学への転換の決意と、彼の研究史の上でもっとも動きの激しい重要な時期である。上京してから2年間は坪井が英国に出張中だったり、経済的に苦しかったりしたこともあって、順調な滑り出しとは言えなかったが、東洋歴史考古学とドイツ語、ロシア語など語学の習得を始めた。坪井が帰ってからは、理科系の講義の聴講に集中している。おそらく、坪井の強い影響を受け次のような心境に達する(注2)。

東洋の歴史考古学などの研究を捨てる気になり...自然科学としての人類学を専攻することに決した(1958:41)。

この時期は、単に上記のような受け身の知識の吸収だけでなく、坪井の主宰する教室をあげての発掘、土俗調査に参加し、報告書をまとめていた。彼の報告は、数の上では教室の中で坪井に次ぎ、坪井からほめられたものもあったが、過半が踏査的なものであった。当時鳥居は、土器・石器を調べるということはそれほど好まず、基礎学として位置づけていた。こうした聴講や実習の研鑚のなかで、二十五歳に自らの希望で、その生涯を彩ることになる海外調査を開始した。

1894年(明治27年)日本の遼東半島の占領後、聴講していた地質学の神保教授の調査に同行する話が持ち上がった。結局ことわられたが、鳥居は坪井にねだって東京人類学会派遣という名目を取り付け、民間からの寄付金100円を集め、1895年(明治28年)単独で遼東半島に渡り五ヶ月間各地を巡って採集調査を行った。総合的な調査としては前年の秩父浦山調査が唯一の経験であり、占領間もない現地の情報不足もあって初めての海外調査としては準備不足であった。例えば、言葉をとっても陸軍省から渡された仮名書きの『支那会話』が頼りだが、一向に通じないで悩んでいる。石器の採集や、土俗調査などで収穫は有ったが、後の調査に比べると大きな成果をあげたとは言いがたい。しかし、一人の人類学者の調査は、しばしばこのようにして始まるものであり、鳥居の場合もドルメンの発見、遼代遺跡との出合いなど、ライフワークとして晩年に回帰するテーマにふれる体験となった点で極めて重要な意味を持つ。

台東での鳥居龍蔵
これにつづく、台湾調査[東海岸(1896、5ヶ月)、紅頭嶼(1897、70日)、南部(1898、90日)、山地(1900、3ヶ月)]は、当初大学で教室からの調査派遣が決まりながら皆が二の足を踏んでいたのを引き受けたこともあって、準備などの点で条件は恵まれていた。当時珍しかった写真機をわが国では初めて本格的に利用することもできた。原住民が土器を作ったり、首刈が実際に行われていた時期の調査で、血気にまかせ新高山(現在の玉山)の日本人としては初登頂を決行している。5年後に出されたヤミ族の報告書は、形質人類学から、物質文化を含む総合的なもので、当時の水準を十分クリアしている。台湾本島での調査も多方面にわたるが、とくに考古学方面では、台湾先史学研究の基礎を築いたとされている。

北千島調査(1899、49日)も、坪井の要請を受けて大学から派遣されたものであった。土俗、考古、形質にわたる調査をしたが、その4年後に出された報告書は、短期間の調査にもかかわらず精細な観察を含む。北千島アイヌの伝統的な風俗習慣が姿を消した現在、きわめて貴重な資料であるだけでなく、彼の民族誌の内でも最良のものとなっている。これは、欧米人の先行研究だけでなく、彼の得意とする日本の古記録をも参照した厚みのある記録になっていることや、消え行く少数原住民への深い共感を持ちながらの調査であったためであろう。また、その調査結果は、皮肉にも師坪井の考えていた北海道先住民コロポックルの実在を否定するものであったが、彼はそのまま発表した。このことが直ちに坪井との関係を冷たくするということはなかった。坪井の度量を示すものであるが、鳥居も教室内において対外調査を任せることのできるのは彼一人であった。

台東付近で調査中の鳥居龍蔵
台湾、千島両調査では、計画が先行し、彼に白羽の矢が当たり大学から派遣されるという形を取っていた。形質人類学、考古学の専門化に傾きつつあった人類学教室内にあって、土俗をもこなせ、海外調査の即戦力となりうる鳥居はユニークな存在であった。しかし、彼はこれらの海外調査から帰った後も、報告書の執筆や講演の準備だけでなく、熱心に語学と人類学の基礎作りに励んでいた(注2)。1900年(明治33年)頃、台湾から帰って、坪井にあてた手紙には、地質学、動物学、解剖学、発生学など聴講していることを報告すると共に、「今二十年も経過せば...人類学を大学院程度で学ぶが如き基礎が出来ようかと思います。」と恩師の指導に従って全力を注いでいる意気盛んな姿がしのばれる(1953:78)。このような努力は、30歳をすぎてからも、毎日早朝勤務する東大の文学部でフランス人の先生から、また夜は暁星学校の夜学に通うという形で続けられた(1953:104)。

同じく、大学からの派遣の形を取っているが、中国西南部の苗族調査(1902?1903、8ヶ月)は、台湾原住民と苗族との関連を確かめたいという鳥居自身の希望に基づくものであった。これは、日本や中国で注目を引いていなかったこの地域の少数民族を学術的に調査したという先駆的な意味を持っていたと同時に、鳥居自身の研究にとっても大きな内的転機となった。この調査を機に、理科的人類学から文化的人類学へと重点を変えていったことについて、彼は次のように述懐している。

東京帝国大学助手になっていた31歳の龍蔵は、明治34年、徳島市の女性きみ子と結婚した。
人類を動物として研究する人類学(第一部)と、人種、民族の体質、言語、風俗、習慣、神話伝説等を研究する人種学、民族学(第二部)は全く研究方法を異にしているから、分離したほうがよい。初め第一部の方を主としていたが、明治35・6年の苗族で第二部の必要性を感じ、更に、第一部を放棄し、専ら第二部に力を注ぐようになった(1913『全集』第一巻481?482)。

こうした方向転換を敢えてし後の師弟関係、教室内・大学内における地位は、それまでの坪井の指導にそのまま従い自然科学系の知識の習得に全力を傾注していた頃とは、異なったものとならざるを得なかった。鳥居が文学部の匈奴史や支那史を聴講したり、東洋学会設立を手伝ったりしたことから、この微妙な関係が表面化し、理学部内で学部長や坪井の不興をかった。

満州と朝鮮調査1905年(明治38年)-1916年(大正5年)(35-46歳)
満州での鳥居龍蔵
1905年(明治38年)東京大学校から、文科大学(今の文学部)の市村贊次郎、工科大学の伊東忠太両氏と共に理科大学から選ばれて満州の現地調査に派遣された。現地では、それぞれ個別の行動をとり、漢代墳墓の発見、満族皇帝の廟にシャーマニズム的遺物を認める等、多くの新事実を見い出したが、この調査は、彼の研究史において南から北への転換点としても重要性を持っている。とくに、東蒙古を訪れたことが、蒙古にたいする興味をかき立てることになった。

翌1906年(明治39年)の蒙古行きも、この時同行した市村教授から蒙古王府学堂の教師の口を紹介されたもので、上記のように教室内で孤立し悩み抜いていた彼は、一切を清算し大学に辞表を出して出発しようとする。坪井、さらには「温厚なる」浜尾総長の慰留を受け辞意を撤回し現職のまま調査に出かけた。出発に当たっては大隅重信、北京では服部宇之吉博士の支援を受けた。彼は、この年を「私の歴史中、最も記念すべく、一大変化をきたした」年と記している。学堂で教えながら、身体計測、童謡の蒐集、石器時代と遼代の遺跡遺物などの人類学的調査にも精を出した。任期を終え、いったん帰国したが、一時は蒙古での永住も覚悟し(『全集』9:568)、同じ1907年(明治40年)6月生後七十日の長女を伴い、親子3人で再び内蒙古を訪れ、危険をおかしながら外蒙古に入るなど一年半にわたる大旅行をした。彼は、この調査を、蒙古における石器時代の確認、遼代に至る将来の研究の基礎研究、および土俗研究として位置づけている。世界的に見ても当時の東蒙古は、民族学的、考古学的調査の未開拓地であった。

鳥居の朝鮮調査は、満州調査の序でに行われた最後の第7回調査を除き、四十代始めから、北朝鮮から南の多島海へと調査地を意識的にずらせながら、毎年集中的に行われた。この間、私的には母親の死と、公的には恩師であり人類学界のリーダーであった坪井正五郎の急死にあい、人類学教室を引き継ぐという大きな事件を経験している。朝鮮調査は、この油の乗り切った時期に都合8回(予備調査を含む)にわたるにもかかわらず、鳥居には珍しく、第5回を除いて詳しい報告書が残っていない。これは、同じく総督府から依頼で1913年(大正2年)から委嘱を受けた関野貞氏ら歴史学者たちの調査分担に縛られていたこと、およびそれと関わりが有ったのか否か不明だが、総督府学務課での第1回報告書紛失事件とによるものであった。

元来、朝鮮調査は、蒙古満州の調査を始めていた鳥居が出版界の知人の紹介をうけて、寺内総督と合い、嘱託となって始めていたものであった。第3回目の時、総督府では関野貞氏らに古建築と古墳の調査を依頼し、鳥居は、石器時代遺跡と生体測定に従事する事になった。彼がこの分担領域をいかに気にしていたかは、自分の調査が考古学と自然人類学および土俗に関わるものであると再三断っていることからも明かである。例えば、第3回調査で慶州からの通信のなかで、「此処はすでに関野博士などの充分調査されて居る所でありますから、なるべくクンストゲジヒテーの如きは単に見物とし、それよりも最も古い新羅六村時代の跡を調べん考えであります。」と記しており(『全集』8:674)、また、再訪した慶州で仏国寺の仏窟庵石仏も「"人類学的に"見る」、とわざわざ断っている(『全集』8:675)。

 これは、鳥居がすでに満蒙の調査から、有る程度自分の見通しを持っていて、それが定説と抵触する事に気づいており無用の摩擦を起こさぬよう配慮していたからであろう。かれは、予備調査で、それまで朝鮮に存在しないとされていた石器の存在する事を確認した。さらに、平壌付近の大同江畔の古墳について、今西龍、関野貞らの高句麗説に対し、鳥居は直積発掘に立ち会うことは出来なかったが、盗掘者の所持する遺物、満州での発掘経験、『漢書』、『魏志』等の資料を考慮し、楽浪郡の漢族の墳墓であると断定した。東京でのこの発表に対し、出席者の多数より反駁され、朝鮮研究の権威に対し無礼であると詰責された。『史学雑誌』にも掲載されなかった、と鳥居は述べている。[ただし、実際には鳥居は朝鮮調査を始める前の満州調査で、関野氏らへの反論を『史学雑誌』(1910b『全集』8:603?604)で明確に述べている。]また、鳥居説の正しいことがわかって後も、毎年行われた古墳発掘の仲間に入れず、逆に「鳥居は、楽浪古墳の発掘に関係せず、従って埋葬すら知らない」と嘲笑された(1953:170?171)。潔癖な鳥居は、調査終了後、採集品をすべて総督府博物館に納めた(注3)。朝鮮の石器時代についての見通しを論文に発表しようと思ったが、最終回の調査以後は、「同府の嘱託はとかれ、黒板博士及び東西大学各位の仕事となり、私にはこれに関係させず...その他の人もこれに入れないで、官学学者唯一となったから、私は遂に総結論をもすることができず、そのままになった。」(1953:174)と記している。孤高を貫いた鳥居の対人関係が、調査の進行と報告の作成にまで直接影響を及ぼした点で、朝鮮調査は、こうした直接の制約を受けなかった他の地域の調査と比べ特徴的である。

予備調査を入れ8回にわたる朝鮮調査では、生体測定、石器時代の遺跡、民俗やシャーマ二ズムが主要テーマであった。これらの成果の一部は、雑誌論文などに発表されているが、詳細な記述は第5回を除き、ついに発表されなかった。風俗に関する記述や今回展示された写真のうちにも、当時の姿をしのばせる貴重なものが触れられているだけに、その資料と克明な日記や朝鮮に残された写真原板が一部を除き生かされなかったのは惜しまれる。

国内調査1917年(大正6年)-1926年(大正15年)(47-56歳)
この10年間、彼にしては珍しく海外調査は2回のシベリア(1919、7ヶ月、1921、3ヶ月)、山東省(1926秋)のみであった。むしろ、国内調査を精力的に行っている。主なものだけでも、大阪毎日新聞社社長木山氏の依頼による大和地方の石器土器遺跡の調査(1917年7・8月)、長野諏訪(1918年11月)、長野(1920年4・5月)、福島・新潟の考古学調査(1920年7・8月)、長野伊那・木曽考古学調査(1921年8月)、徳島城山貝塚の発掘(1922年4月)、宮崎延岡(1925年10月、1926年4月)などであり、その結果をもとにした著書の出版もこの時期に集中している(注4)。また、東京市公園課の委嘱を受けて史跡調査を行ったり、彼が中心となって創立した武蔵野会から1917年(大正6年)に雑誌『武蔵野』を発行している。

鳥居の国内調査(注5)は、東アジア全体を視野においての日本人および文化の起源が主要なテーマであり、日本民族の複合起源論、騎馬民族説や畑作農耕の重要性など後の仮説や定説の先取りをしているところが少なくない。それだけでなく、地方誌レベルでも、啓蒙的活動と共に、当時の時代的環境のなかで学問的良心に沿った発言をしている場合がある。例えば、宮崎延岡の古墳調査への要請は、日向神代史を実証してもらおうという宮崎県知事や一部地方人士の思惑も加わってなされたものだったが、「易や霊感で皇祖発祥の地であることがわかれば、特に学術調査の必要がない」と批判し、神話と正しい歴史上の事実を区別する必要を説き、御陵とされる古墳は日向の古墳中最も古い形式のものとは言えないと真っ向から述べている(『全集』4:633?637)。 

このように、いわば関心が国内に向けられたのは、これまでの海外調査のまとめにかかっていたこと、1913年(大正2年)坪井急死の後を受けて東大人類学教室の主任としての仕事が忙しかったことによるものであろう。また、この時期は、1924年(大正13年)に東大を辞職するまで、1920年(大正9年)のパリ学士院からパルム・アカデミー賞、その翌年文学博士の学位を得たこと、パリの万国連盟人類学院の正会員に推薦されるなど彼の生涯で世俗的には最も安定した時期であった。

満蒙・ペルー調査1927年(昭和2年)-1938年(昭和13年)(57-68歳)
1927年(昭和2年)南満鉄道本社での学術講演の序でに行った金、渤海の古址調査を皮切りに、翌1928年(昭和3年)東部シベリア第3回調査1カ月の後満州に人り、漢代および遼墓を発掘、7月にいったん帰国したが、8月から4ヶ月間ゴビの砂漠地帯の遼代遺跡を訪れている。還暦を過ぎても、現地調査の密度は衰えることなく、満州(1932、2ヶ月、1933、1935)、蒙古(1930、5ヶ月、1933)と続けられていく。遼代文化が主要な対象であり、晩年のテーマへとして収斂していく。さらに文化使節として南米(1937?1938、11ヶ月)にも渡り、インカの遺跡などを訪れている。同行した次男の龍次郎氏によると、使節とはいうものの、現地費用は自前で補えという調子だったので、在留邦人会の後援を受けたり、龍次郎氏が出先機関とやり合ったこともあったと言う。ティヨ教授の発掘現場を訪問。話をしている内、ラドクリフ・ブラウンが鳥居家を訪問した(注6)と聞くと教授の顔色が変わり、至極懇切丁寧な応対になった。当時、外交上日本が問題視されていた頃であり、同行してこの様子を見ていた領事館員が、学者による文化交流をもっとやらないといけないと語っていたという。この時期の調査は、夫人、長女、次女、次男がそれぞれ役割分担を受け持っての一家をあげての調査が多い。

また、国學院大学、上智大学の教授として、多くの後進を育てた時期でもあった。大著『考古学上より見たる遼乃文化図』の出版も終え、普通なら隠退悠々自適の生活に入るところであろうが、彼はさらに外地での調査研究続行の通を選んだ。

中国滞在1939年(昭和14年)-1951年(昭和26年)(69歳-81歳)
北京の燕京大学ハーバード燕京研究所の客員研究員として招かれ、終戦後まで十二年間滞在した。アメリカ系の燕京大学で厚遇され、学内は自由な雰囲気があった。しかし、学外では排日運動の盛んになる時期でもあり、また逆に日本の興亜院などの諸機関よりは白眼視され、在中日本人社会からは孤立せざるを得なかった(『全集』6:658)。当時、鳥居は、日本人は中国民族の強さを知らない。悲しいことだが、中国は大きすぎる。戦火を拡大すればするほど、日本人は負けいくさに追い込まれるだろうといつも嘆いていたという(『全集』6:658)。

北京での生活は遼文化の研究に集中し、戦争が始まるまでの二年間はその遺跡をたびたび訪れ、七十歳を過ぎても現地調査報告書(1942 Sculptured Stone Tombs of the LiaoDynasty 『全集』5:554?635に翻訳収録)を英文でまとめているのは流石である。この画像解釈には、彼の東洋学や日本古典の博識が生かされている。一方、かつての総合人類学としての自然科学的側面への関心は全く薄れている。同じ頃、鳥居は別のところで、契丹の文化は基は簡単なものとのみ考えて居りましたが、調べれば調べるほど歴史考古学上や美術史的のものとなり、いつの間にか五代から北宗のそれになって来ました。しかしこの時代は、考古学として未だほとんど未開の原野ですから、新たなる衣裳を着て出るには最も良いところがある... 学界に一エポックを形成し...  (『全集』6: 656)と、新たな境地開拓への闘志を燃やした心境を綴っている。

龍次郎氏によると、戦争が終わり閉鎖されていた燕京大学も再開され、多くの日本人が引き揚げるなかを、アメリカ人牧師のJ.L.ステュアート学長から「日本に今帰っても大変だからここに留まった方がよい」と引き留められ、静かな研究生活を続けることが出来た。内戦後1949年(昭和24年)共産政権になっても、燕京大学教授として研究に専念することが認められた。しかし、燕京大学自体が北京大学に併合されるなど騒然として来たし、学長も、「帰るなら、あえて引き留めない」と言ったので、中国政府らからは、一生残って欲しいという要望もあったが、帰国することにした。邦人の多くが抑留されたり、持ち帰りの荷物に厳しい制限をつけられた当時、鳥居に対しては蔵書から家財までほとんど無制限に近い破格の取扱いだった。ただし、明代以前の書物は置いていってくれとのことだった。リストを提出したら、龍次郎氏の読んでいた本一冊とFrom Ape to Manを出せと言ってきたが別に没収はされなかった。これを見ていた鳥居は何がおかしいのか笑っていた。

帰国後の鳥居は、その晩年の二年間、講演や回顧録ともいうべき『老学徒の手記(1953)の執筆に取り組んでいたが、調査についても龍次郎氏が南米を再訪してはと言うと行こうかと乗り気であったという。

以上、鳥居の調査を時期に分け逐ってみたが、ここで、なぜ、このような足跡をたどったのかという問題について考えてみたい。言い換えれば、時計の針をこのように振れさせた要因は何かという疑問である。 その答として、日本の対外侵出との結びつきに求めることも可能であろう。 たしかに彼の調査と日本の対外侵出とが時期的に一致し、現地で軍や出先機関の便宜を計ってもらっていることは事実である。

1984年 日本軍による遼東半島の占領?1985年遼東半島の調査
1985年 日清戦争後の台湾領有?1896年、1897年、1898年台湾調査
1899年 千島列島視察の軍艦武蔵に便乗して現地に赴く。
1910年 日韓併合
1911年ー1916年朝鮮調査。
1918年に始まるシベリア出兵
1919年 東シベリア調査
1920年代の北支・満州侵出
1926年山東省調査
1927年 満州調査

と、まさに対外侵出の影を追うようにして調査地に入り込んでいる。しかも、時期的に一致するだけでなく、彼自身総督をはじめ現地の上層権力者であった行政官や軍人に会い、その肋力を得ていることも事実である。問題は、この事が、その調査内容や結果にどのような影響を与えたかにあろう。

まず、書いたものを読む限り、彼自身こうした関係を後ろめたく思ったり、公表を躊躇したりしたことは無く、また、もちろんそうした関係を誇るでもなく、むしろ、淡々と書いているという印象を受ける。当時の状況で、こうした出先機関抜きに現地調査をすることは不可能に近かったであろうし、こうした侵出が植民地主義、帝国主義と結びついた暗い面を持っているということは、現在ほど人々の意識にのぼらなかったのではなかろうか。その意味で彼も時代の子であって、遼東半島返還を嘆く文、日韓併合を支持する文も書いている。もっとも、朝鮮大同江古墳の高句凝説が、「中国政府に対する政治上のポリシーからも好都合であった」ために唱えられていると、その学説の主張者自体よりも、背後にある人物を糾弾しているところを見ると、学説が権力と密着する可能性については、ある程度気づいてはいたらしい。ただ、自分の直接関係無い場合にまで広げ取り上げて問題にすることは無かった。

しかし、それだから彼の調査は権力と密着していたに違いないとと即断するのは短絡的すぎる。主体性を保ちながら、権力の意図とは無関係な学問的業績を挙げる可能性を全く否定する訳には行かない(注7)。とくに、鳥居の場合、自分は学術調査を行っているという意識が、恐らくは時流に乗った官学の学者たちへの対抗意識やコンプレックスとも関係して、人一倍強かったために、常に、学術調査のための便宜を正面から要請するという姿勢が強かったと思われる。彼の人柄と、学会、大学、知人の紹介状、さらに次第に高まってくる名声などもあづかって、多くの人々は、そうした条件無しの支援を惜しまなかった。もちろん、うまく行かなかった場合もあったが、相手の人物に関する否定的な感情や感想は、特別の事件の場合以外(注8)あまり書き残していないし、その場合ですら淡々としている。

植民地発展の先端部を調査しながら、それに伴う現地での摩擦や独立運重力などの動きが、文章はもとより写真でもほとんど感じられないのは、それに関心が希薄だったこと、当時まだ先鋭化していなかったことにもよろう(注9)。しかし、初期の調査であった南方面はともかく、時間的厚みを伴って行われた北とくに満蒙についての調査においてすら、この面が全くといって良いほど現れないのは、主たる対象が考古学的遺跡および遺物であり、土俗方面においても伝統的側面であったことに因ると思われる。

当時の外国の探検調査などにありがちな軍事的調査に関与していたことを示す事実は筆者の調べた限りでは全く無い。終戦後に書かれたものではあるが、彼は次のように述べている。

一体私達が蒙古に来た目的は、軍国主義の使命を果たすためでなくて、蒙古人に親  しみ、文化的に彼らを教育すると共に、私の専門とする人類学・考古学をこれから  研究せんがためである...若しもこの希望がなければ、私達は蒙古に来ないのである(1953:120)。

これは、彼に対する戦後の中国側の扱いから見ても額面通り受け取って良いように思われる。また、彼自身の調査が手持ちの資金切れで帰途につく場合がしばしばあることも、潤沢な資金をもとにした諜報活動などとはほど遠いものであったことを示す間接的な証拠になろう。きみ子夫人は、「次から次へと興味溢れる発見に、私共の研究熱は何処までも止度もなく燃えてくるのである。でも今少しと思うときいつも定まって旅費が欠乏して居る為多くの希望を残して帰って来るのが常である。こんな時亜米利加あたりの探検隊がうらやましくてならない」と記している。

また、大学に奉職しながら、毎年のように海外出張を繰り返していたのも、特別な地位や権利を享受していたというより、恐らくは周囲の理解と多少の摩擦を覚悟の上での時間的やりくりの結果であったろう。

鳥居博士は金もうけに縁がなく、調査出張の費用がかさむ。その出張の時間的余裕は、教授時間数が少なく、学生数の少ないため融通がきくのであり...(村山恒雄  1970.03:87)、むしろ、彼の調査が対外侵出と期を一にしたのは、日本の隣接地城への学問的関心が実地調査で生かせる可能性が生じた場合にはためらわず利用するという彼自身の姿勢に因るものである。これは、例えば、次のようなシベリア調査についての記述にもよく表れている。

東部シベリアの人類学、考古学は、我が国学者として大いに比較研究すべきものであ る...機会あらば、該地に赴き実地に調査しようと思っていた。然るに、シベリアは 帝国露国の領土で、学術上の調査といえども、なおこれを許さないのである...然る に時なる哉我が国と米国とはシベリアに出兵せねばならぬこととなり...ここにおい て、私の日頃の研究欲は勃発し、直ちに東京帝国大学より派遣されることを申請し、 陸軍省の許可を得て、ついにシベリアにゆくことになった(1953:178)。

こうした姿勢を現代の基準から批判することは容易であろう。しかし、当時こうした機会を禁欲的に見守っているいたとしたら、彼の学術的業績や資料の多くは残らなかったであろう。 なぜ、後半生の研究を満蒙に集中する事になったのか、という疑問については、彼の東洋歴史および考古学への興味、たまたま彼が東大での関係を清算して新天地を求めた地であったこと、長期滞在の可能性といった外的要因も作用したであろうが、対象となった民族との相性もひとつの要因ではなかったろうか。彼の調査を通して、対象にもっとも強い関心を抱いたのは、おそらく北千島アイヌと蒙古人であったと思われる。もちろん、台湾の平埔族や西南中国の少数民族の場合にも、漢族に取って代わられる民族の悲哀への同情が認められ、とくに当時消滅の瀬戸際にあった平埔族の写真に緊迫感のあるものが多い。北千島アイヌの場合には、ごく僅かしか残っていない人々のアイデンティティが目の前で失われようとしていることへの悼みが、いっそう濃厚に反映している。一方、二百万人を越える蒙古人においてこうした絶滅の危機感とは無縁であるが、漢族の浸透が蒙古人の生活区域を次第に狭めて行くことへの危惧を、長期滞在で知り合った蒙古の人々と共に感じているところに由来する。この危惧は、現在遊牧民の定住化と漢族の奥地への流入という形でいっそう深刻な局面を迎えている。加えて蒙古人に出会って多くの日本人が抱く親近感も有ったであろう。現地語を績極的に習得し、実際にも用いたりしたのは、蒙古調査のみであった。いわば、腰を据えた現地調査であっただけに、その学問的関心が文化とくに社会面へ向けられなかったことが惜しまれる(注10)。また、こうした近い関係にあったとすれば、その写真も他とは異なった写り方をしたであろう。また、東京大学理学部に残されていた写真乾板のみを復元した今度の展示会には、東京大学辞職後に写されたものは入っていないので、残念ながら蒙古の写真を見ることは出来ない。

最後に、こうした足跡から生み出された人物像について気づいたことを述べて見たい。鳥居の評価は、両極に分かれる嫌いがある。これは、自他ともに誠実であることを求め、在野意識の強かったことから、敵味方をはっきり区別し、批判と受け取ると猛烈に反発するという彼個人の性格に由来するところも少なくないが、善玉悪玉に分け平面的レベルの理解でよしとする世間一般により多くの問題があるのでは無かろうか。鳥居の言動全てが正しく、相手が間違っていたという一辺倒な評価は、彼の真価を覆いかくす恐れが有るし、反対に当時の学説の水準や脈絡を考えず一部だけを取り出して酷評するのも意味が有るとは思えない。

同情的な立場からのものとしては、例えば、東大辞職後「再び東大の門を潜らなかった。いや潜らなかったのみでなく、本郷に所用があっても東大側の道を歩くのを潔しとしなかった。」(松本1976.09:732)という逸話があげられる。これは、受難者のイメージにふさわしいが(このようなイメージ形成には彼自身の言動も全く無関係であったわけではないが)、彼が書いたものを読んで浮かび上がってくる人物像からはほど遠い。実際、1913年(大正2年)長男龍雄氏のフランス留学に際し東大理学部に行っているし(鳥居博士顕彰会 P.89)、1935年(昭和10年)には東大法学部講堂において第一回東方文化講演を行い(中川1970.03ニ47)、また、戦後帰国した時は、理学部人類学教室主催の歓迎会にも出ている。辞職の原因となった当の松村瞭氏についても、人類学の流れについて述べる場合に、もちろん高い評価は下さないものの無視したり感情的反感を交えるような書き方はしていない。

反対に否定的な立場からのものとしては、例えば馬淵東一(1987)は、台湾原住民の起源に関する鳥居の着想の価値を聞かれて、鳥居が北海道の洞窟の絵文字を見て「我北海道に上陸せん」と解読したという伝聞を引き合いに出して否定的に答えている(『台湾の民族と文化』148頁)。これは、突厥文字と比較し綿密な考証を加えた鳥居の論文(「北海道手宮の彫刻文字について」『全集』3:540?546)の存在を知っていれば、根拠の無いことが明かな話であり、聞き覚えをもとにした、気軽な昔を偲ぶ座談会での馬淵らしくない不用意な発言であるが、当時一般に「中央の学会」にはこうしたいわれの無い噂話をもとに極端に低い評価を与えようとしていた風が有ったことを示している(同上)。

このような誇張された世俗的評価を取り外して見えてくる鳥居の人物像はどのようなものであろうか。もとより彼は、八方美人的な意味での社交性を欠いていた。これは、幼時からのさまざまな体験(小学校に馴染めなかった、上京してからの苦労など)に基づく反骨精神等にも因ろうが、単純に学者として、自分の進む通が見えて没頭すれば、世間的なつきあいは程々になるのが自然で、特に彼のように守備範囲を広げた場合には、金はともかく時間のかかる趣味に無関心であり、自ら社交のための行動を取らなかったのは当然であろう。

私はあまり外出して人と交際することを好まない。この性質から、自ら先輩や友人を訪うたことは最も必要の外は一切しない。また東京に来てから一度も避暑・避寒に行ったこともない。もとより私の宅を訪問せられる各位に対しては、歓迎し...  (『全集』12:415?416)。
父はお客様とお話して、いつも上機嫌ということはないので...(藤原英比古1970.03:165)

彼は、その高名や学識をひけらかしたり、偉ぶったりすることからはほど遠い一般には謙虚な態度を示すタイプであった。師や先輩を立て、弟子を可愛がる点では人後に落ちなかった。人間関係でぎこちなさが有ったとすれば、横のつながり、とくに学問的にかかわりをもつ他人に対してであったろう。これは、若い人から新しい考え方を吸収することを妨げ、一見学界の進展から取り残されるようになった原因となったのではなかろうか。

武蔵野会の同人は、忽ち100人を越えるようになった...。予備知識の無い素人に  は、愛想よく懇切であったが、ご自身が歩まれたひた向きな研究心を標準として見  られるので若い者には相当辛らつな激励の言葉をかけられるので、後学の青年たち  からは不平を起こされたことも多かった。先生の研究とは方向が少し違う学究の人  たちには極めて露骨な表現をされたこともあった(井下清1970.03:39)。

しかし、この事は、彼が前半生をかけて作りだした学問的スタイルをくずさず守り通したことを意味する。それは、経験の積み重ねに基づく洞察力を保持し、発見とその記録だけでなく、その後の進展の正しい方向を指し示すというパイオニアの役割を十二分に果たすのにはプラスになったのかも知れない。事実の点で決着のついたコロボックル説の否定、楽浪郡墓漢代説などはもとより、日本民族の複合起源論、騎馬民族説、照葉樹林文化論などその後に唱えられた仮説が彼の考えていた着想に沿うものであったことは(注11)、彼の足で調べた経験の確かさに由来するものであろう。



[後注]

注l)鳥居龍蔵の各地域における足跡については、すでに『東京大学総合研究資料館所蔵鳥居龍蔵博士撮影写真資料カタログ』に共同研究の成果として各メンバーによる力作がまとめられている。また、『図説鳥居龍蔵伝』をはじめとして数多く要をえた記述がある。なお、鳥居博士の次男である龍次郎氏には、3度にわたってお目にかかり、興味深いお話をうかがった。万一、意を尽くさない点があれば、専ら筆者の責任である。

注2)このような動物学まで含む広範な自然科学を直接人類の研究に応用しようという立場は、寺田(1975)も指摘しているように、人類学創草期にしばしば見られる壮大で実現不可能な企てであり、また林(1985)も述べているように、理科的学問は鳥居本来の素養とは馴染まず、彼のパーソナリティ形成に負の影響を及ぼしたと見ることも出来よう。しかし、少なくとも形質人類学的素養は、初期の調査で、当時の水準としては充分な成果をあげたし、その総合的アプローチにより広い見通しを得たことの意義は少なくないと思われる。

注3姜仁求『韓国 前方後円墳 舞妓山 長鼓山 測量調査報告書』(精神文化研究所)P.28によると、総督府の資料を引き継いだ、ソウルの景福富宮中央博物館に20、000枚の原板が残され、名前は書いてないが、中に鳥居らしい人物の写ったものが有るという。

注4)主要な日本に関する著作は、以下の通りである。
  • 1918.07 『有史以前の日本』磯部甲陽堂
  • 1924.09 武蔵野及其周囲』磯部甲陽堂
  • 1924.10 『諏訪史』節1巻、信濃教育会諏訪部会
  • 1924.01 『下伊那の先史及原史時代 図版』信濃教育会下伊那部会
  • 1925.01 『有史以前の跡を尋ねて』雄山閣・
  • 1925.03 『武蔵野及其有史以前』磯部甲陽堂
  • 1925.10 『人類学上より見たる我が上代の文化』叢文閣
  • 1926.03 『先史及原史時代の上伊那』信濃教育会下伊那部会
  • 1926.07 『第二回・第三回延岡附近古蹟調査』東臼杵群郡史蹟調査会
  • 1927.01 『上代の東京と其周囲』磯部甲陽堂



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