遺跡はメキシコ国境に近い港町コロサルにある。今世紀初頭、コロサル市に住むイギリス人医師トマス・ガンが30あまりのマウンドを調査し、とくに後古典期の建築や大量の土器や土偶を発見しているが、時代も時代なので、残念ながら考古学的に意味のあるような形で記録が残されていない。1970年代には、幾人かの考古学者が再度調査を試みたが、その時までに、ガンが手を着けた遺跡の多くは破壊され、市街化の波に飲み込まれてしまっていた。彼が見つけたとされる、ミシュテカ=プエブラ様式の壁画を持つマウンド1もそれに含まれている。最近になって、チェース夫妻が本格的な発掘調査を試みている。それによれば、確かに古典期にさかのぼる遺構もあるが、後古典期の時期に、大きな町であったことがわかっている。後古典期の社会については、スペイン人が侵入した後に書き残した記録からある程度は復元されているのだが、チェースらのような最近の考古学者達は、これが考古学的にどれだけ確かめられるのかに注目をし、研究を進めている。
こうした歴史的な記録によれば、16世紀の初めにスペイン人が到来した頃には、ユカタン半島では、18の独立した都市国家が存在していたという。このうち、ユカタン半島の東を占めていたチェトゥマルの中心地がどうもこのサンタ・リタ・コロサルにあたるようだ。スペインのカルロス5世の許可を得てユカタン半島を探検し、征服したフランシスコ・デ・モンテホが1527年、チェトゥマルを訪れたときには、2000もの家屋を目撃している。金銀はなかったものの、カカオ豆、蜂蜜、トウモロコシを豊富に産出するこの土地を気に入ったモンテホは、将来ここに町をつくることを決意する。やがて、1531年、彼は副官だったアロンソ・ダビラを派遣する。ダビラは、土地の首長に同盟を結ぶべく申し出るが、チェトゥマル側は拒絶し、戦いを選ぶ由の返事をする。ところが、3週間後に上陸をしてみると、町はもぬけの殻。その後も先住民との小競り合いが続き、疲弊しきったアロンソらは、結局、海路ホンジュラスまで撤退を余儀なくされる。1618年、グァテマラのタヤサル国の首都イツァーに向かう途中、この地に立ち寄ったフリアス・バルトロメ・デ・フエンサリーダとフアン・デ・オルビッタは、過去の繁栄のかけらも見あたらない、今にも消え入りそうな町の姿を記している。
さて、こうした記録には、征服直後のマヤ社会がいろいろと描かれている。たとえば、18の地域の中でも、全体を統合する首長がいる場合と、有力な人々によって集団的に統制されている場合、そして独立した都市同士のゆるやかな同盟によって統合されている場合というように3つに分けられるという。こうした社会統合の様態が、建築の配置にも反映されるだろうというチェースの考えには興味深いものがある。唯一のリーダーがいるような社会では、彼の活躍する舞台として、町の中心にピラミッドのような巨大かつ象徴的な建物が見られるだろうし、権力が分散しているような場合は、町の中心にはシンボルはなく、いくつかに分けられた空間のそれぞれに、やや大型の建築とそれに付随する小建造物が配置されているというのである。サンタ・リタ・コロサルの場合は、どうやら後者にあたるようだ。
このように歴史時代の記録は、考古学的にも証明できることがあるのだが、一方で矛盾することもある。 たとえば後古典期マヤの社会では、男性があらゆる面で優位に立つような記録があるが、実際に墓を掘ってみると、むしろ女性の墓の方に副葬品が多く見られる。想像以上に女性の地位や役割は重要なものであったのだろう。また考古学的には証明できないこともある。記録では貴族、平民、奴隷という社会階層があったとよくいわれる。一般に貴族は支配階層だが、豊かな農民や商人でもあり、かつまた戦士であった。平民もこの意味では同じようなカテゴリーに属するのだが、貴族が平民と区別される最大の原因は、儀礼に精通していることであった。ところが、サンタ・リタ・コロサルの考古学的な調査では、儀礼用具を出土する大型かつ複雑な構造を持つ建物とそれ以外の建物というような大まかな分類しかできなかった。奴隷の存在を考古学的には証明できなかったのである。
遺構解説