ベリーズ北部を流れる川ニュー・リバーがチェトゥマル湾に注ぎ込む、ちょうど河口近くにある遺跡である。陸路での接近は乾期に限られ、通常、対岸のコロサル市からボートを使って渡る。中心部分は、5ヘクタールほどの盛り土のされた広場とピラミッド状構造物よりなる。いずれも調査の結果、先古典期後期にあたることがわかっている。とくに3つの飛び抜けて大きなピラミッドが目立ち、その周辺に副次的な構造物が配置されている。このピラミッドの東南には広場が見られるが、すぐ北の、波に洗われて露出した断面の観察からすると、広場の下には、住居のような建物が多数認められる。おそらくそれまで居住空間として利用された場所が神殿の建設に際して埋められたのではないかと考えられる。実際にここからは炭や灰など、生活の廃棄物や建築資材片などが出土している。見つかった柱穴から判断すると、簡単な小屋のような住居が多数あったようだ。住居の周辺やその下には墓や貯蔵穴、それに石の詰まった炉跡なども発見されている。墓からは男女の遺体のほか、土器や生活用の磨り石などが出土したが、黒曜石を用いた石器、ウミギク貝、サンゴといったいわゆる奢侈品の類は見あたらない。まだそれほど、階層の差がはっきりとしていなかったのだろう。
紀元前50年頃になって、こうした住居をつぶして盛り上がった基壇を作り上げたようだ。セロスを支配するエリート階級が出現した時期なのだろう。まず考古学者によって遺構5の番号が与えられているピラミッドが建設され、続いて遺構6、そして遺構4、遺構3の順で建設された。ピラミッドの正面壁、あるいは頂上部には厚い漆喰で神の顔が形作られ、見る者たちを圧倒していただろう。遺構6の頂上部分の発掘の結果、奉納品を納める穴が見つかっている。様々な土器のほか、石製の耳飾り、ビーズ、貝製品、そしてなんといっても翡翠のペンダントが出土したことを忘れてはならない。小ぶりのものが4つ、やや大きいものが1つ、計5つ見つかっているが、いずれも、人あるいは神の顔が彫り込まれていた。
さて、セロスが先古典期における巨大なセンターの一つであったことは間違いないが、いったいどのようにして発展し、そして古典期以降、著しい発展を遂げていくティカルに代表されるペテン地域との関係はどのようなものであったのだろうか。この遺跡を調査したデビッド・フリーデルは、ペテン地域からすべてが伝播していくような低地マヤの文化発展モデルに疑問を投げかけている。たとえば、確かに、巨大なピラミッドを作り上げ、壁面をグロテスクな顔で飾り、漆喰や多彩色のフレスコで彩っていく方法はティカルに似てはいる。洗練されたピラミッド上部構造や、疑似アーチなどの要素も、ペテン低地が先鞭をつけたことは間違いない。しかし、細かいところを観察すると、例えば、階段の形も違うし、壁面のマスクと階段の間を浅浮き彫りで埋め尽くす方法もセロス独自のものである。マスク自体でも、耳飾りの部分にねじれた帯やグロテスクな蛇の横顔がみえるが、これがティカルにはない。むしろこの顔の全面を描く方法が古典期マヤ低地の特色となっていくことやセロスの古さを考慮すると、他に先立ってセロスで完成されたスタイルであるとも考えられる。このように先古典期のマヤ低地の文化発展には地域性が見られ、単にペテン地方からの影響を受けて成立したのではないことがわかってきている。
セロスの漆喰のマスクは、単なる装飾なのだろうか。おそらくは、神の世界の一部を表したものであり、儀礼を通じて超自然的な世界との交信を行う場所を示し、イメージ化したのだろう。儀礼を司るエリートたちは、こうした交信をする能力があると認められ、それが故に敬意を抱かれ、人々の上に立つことを許されたのだろう。しかし、細部が異なるとはいえ、建築や装飾など、こうした信仰に関わる技術がマヤ低地において基本的に似ているのは、やはり何か直接的な交流があったと考えるべきである。この鍵を握るのが、奢侈品、あるいは珍しい工芸品の類である。セロスでも発見された翡翠は、この地域では決して採取できない鉱物である。だとするならば、交易によってもたらされたと考えるのがふつうだろう。実際に、セロスは河口にあり、海と川の交通の要所に位置している。また遺跡では船着き場も発見されている。周辺が決して農業に適した土地でないことを考えると、この遺跡は物資流通をコントロールすることで成立していたと思われるのである。セロスのエリート達は、翡翠のような貴重な品々を長距離交易によって入手し、それを儀礼用具として利用していったのであろう。こうした地域間の交易の中で、実際の工芸品や物資ばかりでなく、宗教的な観念などの相互交流が生まれ、それぞれの地域に、交易や観念を操作する能力に長けたエリートが生まれ、巨大な建造物を伴うセンターが出現したのではないだろうか。
遺構解説