ベリーズの南部、バカ高原の奥深くに位置するマヤ低地最大の都市の一つである。カラコルの名の由来は、この地でカタツムリなどの陸生の巻き貝(スペイン語でカラコルという)をよく目にするところからきている。ここはマヤ高地の西の端、海抜500メートルにあたり、川からも遠い。給水の確保には不自由であったと考えられ、遺跡には貯水池が作られている。この不便さにも関わらず、古代マヤ人がこの地を選択した理由は、どこにあるのだろうか。じつは、カラコル遺跡付近は、多様な石材や熱帯産の樹脂であるコーパルを産出するところとして古くから注目されていたのである。とくに実用、あるいは儀礼用品として欠かせない石器の原材料を提供する重要な場所をコントロールしていたと考えてよい。
カラコル遺跡は、1937年、輸出用マホガニーを求めて、この森に分け入った木材伐採業者ロサ・マイが発見したという。直ちにベリーズの植民地政府に伝えられ、A.H.アンダースンが調査を翌年より開始する。彼は、Aグループの広場を囲む建築ばかりでなく、9つの石彫を発見している。それらは広場にあった3つのステラ(石碑)と2つのアルタル(祭壇)、それに遺構A1の裏側にあった1号ステラ、遺構A2の頂上近くにあった17号アルタル、遺構A4の正面にあった13号と14号ステラである。アンダースンは、2週間の滞在で、2カ所の発掘を行った。遺構A6の北側の部屋の入り口と、オリジナルの状態をとどめていたまぐさを発見し、13号、14号ステラのすぐ隣を発掘し、香炉の破片を発見している。
その後、1950年より53年まで、サターズウェイトの指揮の下、ペンシルバニア大学によって調査が行われ、数々のステラやアルタル、そしてそれらに伴う奉納品用の穴が見つかった。5、6、15、16、17号のステラと7、10、13号のアルタルは持ち出され、現在ペンシルバニア大学博物館に保管されている。3号ステラの上部もいったんはペンシルバニア大学に運ばれたが、その後デンバー自然史博物館に移され、後に発見された下部はベリーズ植民地政府がデンバー博に寄贈している。サターズウェイトは、この際、遺構A6のまぐさ部分を削り取り、放射性炭素14年代測定用のサンプルにしている。この後も、アンダースンは1958年まで調査を行うが、残念なことに、彼が書き残したノートや絵は、1961年にベリーズ・シティーを襲ったハリケーンによってすべて失われてしまった。
しばらく休止していた調査が再開されるのは1985年からであり、調査者はサンタ・リッタ・コロサルの発掘者であったチェース夫妻である。チェースらは、中核部分から放射状にのびる道と、道沿いに広がる遺構を押さえた。中核部では、遺構A3、A5、A6、さらにB区のカアナと呼ばれるカラコル最大のピラミッドの発掘を行っている。
遺構解説