SF的手法による思考実験人類学
「カンタブリアLGM」

更新日:2012年11月7日

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目 次
第 I 部 赤毛の一族
  • はじめに
  • [1] オオツノシカ狩り
  • [2] 洞窟での祈り
  • [3] 長老とその一族
  • [4] 岩陰の晩餐
  • [5] 長老会議
  • [6] 内陸ルート:旅支度
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  • [7] 出発:われらは一体何者なのか?

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    次はチューフィン洞窟です。



    はじめに

    1997年の秋から2004年の夏にかけ、アルタミラやカスティージョ、エカイン、ラ・ガルマなどスペイン北部の洞窟に遺された後期旧石器時代の洞窟壁画ならびに動産美術の情報化のため、バスクからカンタブリア、アストリアスの各地方で確認されている約120余の壁画包含洞窟の中から主な洞窟23箇所を選んでその洞窟空間ならびに周辺景観をくまなく写真撮影する機会を得た。本稿は、その時の印象や体験をもとに今から約3万6千年から1万6千年ほど前にかけてそのスペイン北部で起こったであろう色々な出来事、中でも当時、6〜7万年以上前にアフリカを出たとされるいわゆる解剖学的現代人(ヨーロッパではクロマニヨン人)がようやくイベリア半島に進出し、それまで半島に居住していた旧人(ヨーロッパではネアンデルタール人)にとってかわったという出来事(旧人新人の交替劇)、そして、やがては同地に定着したクロマニヨン人がマグダレニアンという質的に極めて高度な表象文化を爆発的に築きあげる頃の状況をSF、つまりサイエンス・フィクションという手法で復元してみようとする試みである。

    SFとはいえ、創作にあたっては科学的に到底不可能と思われるような出来事や考古・人類学的知見と著しく矛盾する話は避けることにした。むしろ逆に考古・人類学における最新の知見を骨格にして血と肉と気の部分を想像力でおぎない、結果としてネアンデルタール人とクロマニヨン人が交替する時期のスペイン北部の状況をできるだけリアルに復元することを目指した。副題としてあえて「SF的手法による思考実験先史人類学」とした所以である。従って本文中キーとなる箇所には脚注を設け、その意味や根拠となる学術論文や報告書を順次示すことにした。また、執筆中に考古・人類学的知見と矛盾する箇所が認められた場合は躊躇なく訂正あるいはシナリオそのものの変更も可能とした。なお「カンタブリアLGM」つまり「最寒冷期のカンタブリア」というタイトルは、クロマニヨン人がネアンデルタール人と交替し、洞窟壁画制作などの表象的活動が活発になるのが最終氷期の中でも最も寒冷化の進んだLGM(Cantabria in Last Glacial Maximum)の時期であったことに由来する。この著作が何時完結するかは定かではないものの、あえて眼を通してくださる諸氏にはおおいにご批判・ご教示を願う次第である。

    ところで今年の6月15日、本稿の主要舞台であるカスティージョ洞窟の手形の間に遺された点描の円盤の絶対年代がウランートリウム法によって約4万8百年前、最奥部の回廊の赤い円盤の一部が約3万8千年前と測定されたことがサイエンス誌上で発表された。この約4万8百年前というのは、考古学的には中期旧石器時代のムステリアン文化期の末期に相当し、3万8千年前というのは、ムステリアンからオーリネシアン文化期へ移行する過程で見られるシャテルペロニアンという新旧入り交じった文化期に相当する。とすると、それらの円盤を描いたヒトは必ずしもクロマニヨン人ではなく、ネアンデルタール人であった可能性も排除できなくなった。本稿では、解剖学的現代人がイベリア半島に進出した時期を3万5千年前頃とする説をとり、カスティージョ洞窟最古の壁画はネアンデルタール人によって描かれたとして話を進めることにした。


    ***


    [1] プロローグ:オオツノジカ狩り

    今からおよそ3万6千年前、最終氷期でも最も寒冷化が進み始めた頃の話である。 ある年の晩秋、イベリア半島北部、カンタブリア山系中央部のカスティージョ山に連なる山々は、既にその頂がうっすらと雪に覆われ、低く垂れ下がった鉛色の空からは小糠のような雪が降り続いていた。

    そして、ある日の昼下がり、カスティ−ジョ山麓の草地を横切る渓流沿いの谷間では、ホラアナグマの灰色の毛皮で身をまとったひとりの大柄な男が身の丈ほどの槍を片手にじりじりと獲物に接近しつつあった。身の丈は約1メートル75センチ。幅広の鼻と頬以外は赤い頭髪と髭に覆われ、やや前がかりな肢体は一見頑健に見えるものの、彫りの深い色白の顔面にはやや窶れがみえ、目蓋におおいかぶさるように隆起した骨太の眉山だけが際立っていた。そして、その眉山の下の凹みの奥に、透きとうるような蒼い眼がどこか虚ろに輝いていた。

    男から20メートルほど前方でシラカンバの樹皮を食んでいた獲物は巾2メートルはあろう枝角をはやしたオスのオオツノジカだった。体長約3メートル、肩高約2メートル半。重さはゆうに500キロは超える最近ではめったに見ない巨大なオオツノジカだった。
    「この獲物をしとめれば一族25人が30日は食える」と男は思った。
    身近に危険を察したためか獲物は動きをピタリと止め、頭を尻にむけてじっと周囲の様子をうかがっていた。
    男は潅木の茂みに身を隠し、息を凝らして獲物に狙いを定めた。
    そして、男が合図の左手をわずかにもたげた時だった。
    異変に気付いた獲物はふと男の方角を見た。と、男はやおら立ちあがり、かまえていた槍を渾身の力を込めて投げ放った。
    驚いたオオツノジカではあったがそのときは既に遅かった。オオツノジカが後ろ足を蹴って走り出そうとしたその時には槍は鋭くわき腹に突き刺さり、その傷口からは赤黒い血が噴き出していた。二の槍が反対方向から突き刺ささったのはほとんど同時であった。オオツノジカは悲鳴をあげながら狂ったように前方に走り出した。が、行く手は既に他の男たちでふさがれていた。恐怖の余り気が転倒したオオツノジカは、かまわず男たちの中に突進した。男たちは持っていた槍や棍棒で獲物に立ち向かい、カスティージョの谷間はオオツノジカと男たちの壮絶な死闘の場と化した。傷ついてはいたものの鋭利な角と強力な蹴りで必死に活路を見出そうとする獲物を仕留めるのは、頑強な男たちにとっても容易ではなかった。最初に行く手を遮ろうとした男は獲物の鋭い角先で下腹をえぐられ、宙に舞いあがってそのまま地べたに叩きつけられた。次に獲物の後方から第三の槍をつきさそうとした男は、あえなく後ろ足で蹴られ、続けさま宙に放り出された。男たちはそれでも執拗に獲物に肉迫した。そして、血まみれになった獲物がたまらず渓流沿いの木立の中に身を隠そうとしたそのときであった。獲物の姿が突然消え、それを見た男たちはようやく息をつくことができた。小走りに近づいて見ると獲物は、男たちがあらかじめしつらえておいた深さ2メートルほどの大きな穴に落ち込み、血と泥にまみれた四肢を仰向けになってばたつかせていた。それから男たちはその落とし穴に競ってなだれこみ、あるものは丸太で獲物の眉間を打ち、あるものは槍で何度も胸や腹を突いた。そして、あの一番槍を放った男が獲物の腹にささっていた自分の槍をひきぬき、最後の一撃を心臓部めがけて打ち込んだ。獲物の血がじわじわと槍の柄を伝って地面にしたたり落ちた。オオツノジカの動きはそこで止まった。それでもしばし眼をしばたかせてはいたが、やがて静かに目蓋を閉じ、ただの肉の塊と化した。

    このオスのオオツノジカには、メスが1頭帯同していたが、そのメスは遠く離れた川岸の灌木の影で暫く伴侶の逃げまどう様子をうかがっていた。が、伴侶が穴の中に消え、動かなくなったのを見届けると、静かに川を渡り、向こう岸の岩場の影に姿を消した。かわりに死肉の匂いにひかれて現れたドールの群れが7頭ばかり、灌木の繁みの中からじっとこちら側の様子をうかがっていた。

    大きな獲物をしとめた男たちではあったが、それは必ずしも歓びだけではなかった。
    この狩りに参加したのは一族二家族の親兄弟12人。そのうち獲物の角にかかって地面に叩き付けられた男は、脇腹から飛び出した臓器を自ら手で押し戻しながら息絶えた。後ろ足で蹴られたのはやや年配の男で、右足の太ももを切り裂かれ、動脈を破られて暫く地べたをのたうちまわっていたがやがて血と泥の海の中で息絶えた。他の10人の男たちも無傷ではなかった。ひとりは左肩を角でつかれて鎖骨をへし折られ、多くの者が獲物に触れて躯中に打撲をおっていた。落とし穴の中の誰もが血と汗と泥にまみれていた。

    灌木の茂みの中からまたあらたに白髪の老人がひとり、若い女たちを4人ほど伴って現れたのは、男たちが獲物にとどめを刺して間もなくしてからであった。老人はこの赤毛の一族の長老で、よく鞣したオジカの毛皮で身を包み、痩せこけたその顔面には深い皺が刻まれていた。老人は、落し穴に近づき、中に横たわった獲物に無言の祈りを捧げ、他の男たちもそれにならって頭を垂れた。その後、長老は皆を引き連れ、犠牲になった男たちのもとへ向った。そして、地べたで息絶えた男2人を、男たちの手で近場の岩陰に埋めさせ、同じように皆で無言の祈りを捧げた。降り続いていた小糠のような雪はいつしか大粒の雪と化し、背後に見えていたあの円錐状のカスティージョの山も淡く雪煙に霞んでいた。

    犠牲者の埋葬を終えた後、男も女も全員で獲物の解体作業にとりかかった。 通常、獲物がヤギやコジカ程度の小動物であれば、そのまま居住地に運んで解体したが、バイソンやオオツノジカのように500キロを超えるような大モノの場合は、しとめたその場で解体し、小分けして居住地に運ぶのが常だった。

    解体はまず獲物の血抜きと頸部の切断から始まった。一番槍の男が鋭い石刃で表皮を切り裂き、その刃の先が大動脈に達するやまだ体内に残っていた生暖かい血がどくどくと外部に流れ出た。男は更に頚の骨に石の斧を打ちつけ、頭と胴が切り離された。巨大な枝角を誇るオオツノジカの頭部は男たち4人がかりで丁寧に老人に手渡され、女たちが運んできた牛革の袋に納められた。

    次は、臓器を取り出す番であった。腹部は槍で大分傷んでいたが、今度は二番槍の男が注意深く腹部を切り裂き、腹膜をべりべりと剥がしながら、まだ生暖かい臓器を胃、腸、膀胱の順に取り出していった。胃と腸はかなり損傷が激しく、ドロドロの汚物や中身が体内にこぼれ出ていた。それでも臓器はそれぞれ個別に牛革の袋に納められ、女たちに手渡された。心臓と肺、肝臓は肋骨を割って取り出し、同様に牛革の袋に納められた。残った食道や気管や筋も根元で切断し、牛革の袋に納めて女たちに手渡された。

    臓器を取り出した後は水洗いだった。これは女たちの仕事で渓流から汲んできた水で臓器を取り出したあとをよく洗い、体内に残っている血や汚物をきれいに洗い流した。

    水洗いの次は皮剥ぎであった。一番槍の男が同じ石刃で4本の足くびの周りを丸く切り、脚の内側から下腹、そして喉にかけてそれぞれ同様のメスを入れた。あとは男たちが手分けして内から外にめくるように頭まで表皮を剥いでいった。その際、2本の巨大な枝角は頭蓋から引き抜かれ頭の表皮と一緒に躯からとりはずされた。剥いだ毛皮は女たちの手で丸められ、用意してきた鹿革の紐で枝角と一緒にくくられた。

    皮剥ぎが済むといよいよ解体だった。一番槍の男が、まず大きな石斧を頚の関節に打ち込み、頭蓋を胴体から切り離した。次に他の男たちによって脚の関節に石斧が打ち込まれ、肉の塊となった脚部4本が胴体から切り離なされた。胴体は肋の下のあたりで背骨に斧を打ち込み腰部と切り離された。肋にもたっぷりと肉がついていた。そして切断された部位はそれぞれ更に担ぎやすい大きさに切断されて革紐でくくられた。解体の後、落とし穴の中には体内からこぼれ落ちた臓器の切れ端や汚物以外に何も残らなかった。

    赤毛の一族が、こうしてバラバラにした獲物を手分けして担ぎ、その場からそろって立ち去ろうとした時であった。渓流の対岸の岩場の影に何かモノの動く気配を男のひとりが感じた。男は荷をおろし、数歩渓流に近づいてその岩場の影を注視した。そして、更に渓流に近づき、水際に脚がかかった時だった。ヒトらしきものがサッと岩場の影から走り去るのを男は見た。

    それはまぎれもなく2本脚のヒトだった。身の丈は自分よりもやや高く、髪の色は黒。足長でやや細身の躯に薄手の鹿皮の衣をまとっていた。男は振り返って仲間に合図を送り、対岸を指差した。

    黒髪の細身の男が向こう岸から走り去るのは、長老と他の者たちにも見えていた。一番槍の男が長老の顔色をうかがった。対岸を北にむかって逃げてゆく男の姿を、長老は暫く眼で追っていた。そして、一番槍の男が何かモノを言おうとしたところだった。長老は喉から絞り出すような太いうなり声を発し、右手を横に振った。

    赤毛の一族の者が、自分たちとはやや躯付きの違う足長の族を目撃したのは、実は、その時が初めてではなかった。髪の毛が黒く足長の族のことは、ずっと昔から伝え聞いていたし、ただ、ここ数年は特にその足長の姿に接する機会が増え、つい前の前の月にも、東の白い山並みに近い狩り場から帰還した男たちから、その足長の族たちが大勢でオーロックスを追っていたという報告を受けていた。東の白い山並みとは、今でいうピレネー山脈のことで、赤毛の一族は時折同じ種族の集団と共同でマンモスやバイソンなど大型の獲物の狩りに遠征することがあった。男はそんな折に、自分らとは少し変わった異族の集団をたまたま眼にしたのであった。あの足長の連中はダレなのか。一体どこからやってきたのか。このさき連中はどうしようというのか。老人とその一族は不安にかられながら帰還の途についた。



    [2] 洞窟での祈り

    赤毛の一族の住まいは、カスティージョ山中腹の東斜面に開口した2つの洞窟の岩陰であった。カスティージョ山は、カンタブリアの海岸線から約20キロ南のパス川沿いにそびえる石灰岩の岩山で、標高は約355メートル、北にひらけた海岸地方と南に連なる内陸の山峡地との接点に位置し、その先の尖った完璧なまでの円錐型の威容は、その周辺でも特に際立って見えた。そして、その洞窟の開口する山腹からは、近傍のトランソ渓谷やバスエーニャ渓谷に続くパス川沿いの通路を一望することができ、そこを行き交うトナカイやバイソン、時にはマンモスのような大型の獲物の群れを常時手にとるように見下すことができるという、狩人たちとっては絶好の居住地であった。

    赤毛の男たちが獲物を背負い、カスティージョ山の中腹にたどりついたのは、小雪の降り続く鉛色の空が更に重く沈みかけていた頃であった。その日の狩りは、実は、隣接する2つの岩陰に住まう2家族が共同で行ったもので、帰還した一行は、まず、手前に開口している長老一家の岩陰に向った。長老一家の岩陰はカスティージョ山でも最大の大きさで、巾約25メートル、奥行き約30メートル、開口部の高さは9メートルほどはあった。入り口には約2メートルほど内側に入ったところに高さ3メートルほどの仕切りがあり、岩陰の内部を外の冷気から守っていた。仕切りは灌木を寄せ集めて作った骨組みにヤギの毛皮をかぶせたもので、岩陰の中では、既に炉が焚かれていたのであろう、白い煙とともに上の隙間から赤くゆれる光が漏れていた。そして、その日一日留守をあずかっていた女や子供たちが全員仕切りの外に飛び出し、やや心配そうな面持ちで一行を迎えた。
    「狩りはうまくいったのだろうか」
    「男たちは、皆、無事だったのだろうか」
    一行が背負ってきた荷を見届けて一時は笑みを浮かべた女たちも、帰還した男のひとりから一族の二人が犠牲になったことを知り、岩陰全体に沈黙がおおった。その重く沈んだ空気の中で、一行は、とりあえず岩陰の入り口に荷をおろした。そして、用意していた松明に数人が火をともし、一番槍の男ともうひとりが角付きの獲物の毛皮を担ぎ、長老を先頭に静かに奥の方に進んでいった。岩陰の最奥部には大人ひとりがようやくかがんで通れるような小さな穴が開いていたが、一行は順にその穴の中に消えていった。その後姿を見送った女たちは、男たちが背負ってきた荷を解き、ある者は炉の周りで夕餉の支度を始め、ある者は岩陰の入り口で解体された獲物の肉や骨を更に細かく切り刻みはじめた。

    岩陰の奥の穴の先にはヒトの背丈ほどの回廊がずっと奥まで続いており、松明の光にキラキラと岩肌が輝いていた。このあたりでも最大級の鍾乳洞だった。内部は大小の回廊が縦横に入りくんでおり、鍾乳石の列柱で囲まれたその厳かな景観はまさに白亜の殿堂そのものであった。一族のものたちはその暗闇の回廊を、松明の光を頼りに黙々と奥へと進んでいった。

    暫く進むと右手の窪みの岩壁にヒトの手の跡が幾つか印されている。赤い顔料で縁取られた右手の陰画で、この洞窟では最も古くから伝わる印だった。皆は、その手形の窪みのすぐ先を左にまがり、更に先へと進んだ。やがて回廊は比較的巾のある平坦でまっすぐな通路となり、今度は右手の側壁に手の平大の大きな赤い円盤が上下2列にまっすぐ進行方向に印されている。この赤い円盤もこの洞窟では遠い昔から伝わる印で、皆はその赤い円盤の印に導かれるように先へ進んだ。そして、途中やや狭くなった回廊を抜けるとそこには直径20メートル、高さ10メートルほどの広々とした空間が開かれていた。赤毛の一族にとっては、それは、祈りの間であり、誓いの場所でもあった。広間の中央は既に平らに踏みかためられていたが、東側の一部がやや奥に窪んでおり、その手前の地表から太めの石荀が十五六本、重なり合うように天井に伸びていた。中にはその先端の形状がバイソンの角を思わせるものもあり、その尖った黒い影が、ゆらゆらと背後の岩壁に揺れていた。

    男たち全員が広間に入ったところで、まずは長老が石荀の小山にむかって黙祷し、続いて一番槍の男が、担いできた角付きの獲物の毛皮を一番手前に張り出した眼の高さほどの石荀の頭に安置した。続いて二番槍と三番槍の男が、狩で犠牲になった男たちの槍をその傍らにたてかけた。そして、それを見届けた長老は石荀の小山に向って更に黙祷を続け、他の全員もそれにならった。

    広間に集まった男たちは、全部で11人であった。黙祷を捧げている長老が1人。狩りではそれぞれ一番槍と二番槍を担った長老の家の40代の男が2人と20代の青年が3人。同じく三番槍と四番槍を担った隣の家族の30代の男が2人と20代の青年が3人。長老の家からはもうひとりその年で18歳になる男子が狩りに参加していたが、彼は、その日、獲物の角に腹を切り裂かれて死んだ。そして、隣の家からももうひとり17歳になる若い男子が参加していたが、その彼も、その日、獲物の後ろ足に蹴られて死んだ。

    広間はしばし静寂につつまれていたが、やがて長老が喉の奥から絞り出すような声でつぶやき始めた。それは、一族にとっては、自分たちの生と死、獣たちの生と死、草や樹の芽生えと枯死、それに天と地の怒りなど身の廻りの全てを支配する至高の力に対する祈りであり感謝のことばであった。
    長老は感謝し、皆もそれに続いた。今日の狩りがまずは成功であったことを。
    長老は祈り、皆もそれに続いた。犠牲になった2人が安らかに土に帰り、また何時の日か一族のもとへと還ってくることを。
    長老は祈り、皆もまたそれに続いた。これからもまたよい獲物に恵まれることを。
    長老は祈り、皆もまたそれに続いた。一族に災いのおとずれることがなく、いつまでも平穏な日々が続くことを。
    男たちの祈りと感謝のつぶやきは、しばし洞内に低く木霊してやまなかった。



    [3] 長老とその一族

    長老は、その年で約65歳。一族のものたちからは「敬うべきもの」を意味する「タオ」という敬称で呼ばれていた。生まれはこのカスティ−ジョの岩陰で、母は今日のモリンという洞窟からやってきたと聞いていた。モリンはカスティ−ジョから約20キロ北の海に近い丘陵地帯に開口する洞窟で、その広々とした岩陰は、近くのエル・ペンドと並び、遥か昔から赤毛の一族の住まいとして使われていた。カスティ−ジョ、エル・ペンド、モリンの一族は、狩猟やモノや女たちの交換を通じ、代々、堅い絆で結ばれていたのだった。
    長老には母を同じくする兄弟姉妹が覚えているものだけで12人いたが、その半分は10歳に満たないうちに病や怪我で死に、一番槍を任された40代の頃に残されていたのは、2歳年下の弟一人とエル・ペンドにもらわれていった3歳下の妹2人だけであった。後年、同じ世代の年長の者から聞かされてところによれば、冷夏で夏枯れと不猟の続いた年の冬には生まれたばかりの乳飲み子が次々と間引かれたこともあったという。

    幼少の頃の長老は、もっぱら母に付き従い、春から夏の間は蜂蜜や薬草の採集、秋には果実や木の根の採集を手伝った。時には野兎や野ネズミ、栗鼠などカスティ−ジョに住まう小動物を手で捕獲することもあった。野ネズミなどは、巣穴さえ見つければ子供でも簡単に穴からで来る獲物を捕まえることができたのである。ただし、洞窟の外は常に危険と隣り合わせでもあった。長老が弟を失ったのもある年の晩秋、いつものように母に連れられてキノコ狩りに山に出た時であった。カスティ−ジョ山頂に近いヤギの洞窟の近くでトリフを探していたところ、冬ごもり前のホラアナグマに突然襲われ、逃げ遅れた弟は一撃のもとに地面に叩きつかれて息絶えた。妹が山で死んだのもその年の冬であった。野兎を追っていた兄弟たちはシラカンバの林に中で獲物を捕獲した瞬間、ドールの群れに襲われ、逃げ遅れた妹はあえなく5頭もの獣の牙に引き裂かれて死んだ。洞窟に住む一族にとって死は、日常、極くあたりまえのできごとであった。それは一時悲しいできごとではあったが、自然の流れのひとこまとしてただ黙って受け入れざるを得ないことでもあった。

    18歳になる頃には、他の兄弟と同様、年上の男たちに混じって大モノの狩りに出るようになる。また、狩りに必要な道具も年上の男たちに習って自分で作るようになる。道具は主として石器で、最初は下の川原で拳ほどの堅い石を見つけ、見よう見まねで石で叩き割って石斧や石刃、槍先などをこしらえた。それが上達するとやがてはよりきめの細かいフリントの塊を熟練者から渡され、更に良質の石器が作れるようになった。石器の作り方は必ずしも一様ではなかった。最も古くから伝えられている方法は、丸めの石をもう一つの堅い石で斜め上から叩き、はがれ落ちた石のかけらをかるく整形して石刃や石斧や槍先に加工するというものだった。一方、これは比較的新しい技と伝えられていた方法であったが、丸いフリントの上下を平行に打ちかき、その天面の端をシカの角先などで叩いて比較的形の揃った石刃をたたきだし、その石刃に更に手を加えてより精巧な掻器や石刃、槍先に仕立てるという方法も彼の得意とする技だった。石器作り、狩猟ともに長老の腕は着実にあがり、40歳になる頃には、狩猟の現場を仕切る一番槍を担う立場となっていた。

    しかし、長老が長老として「敬うべきタオ」の立場を先代から引き継いだのは、実は、狩猟や石器作りの技術によってではなく、その卓越した記憶力によってであった。赤毛の一族たちの間には一族の出自と掟が遥か昔から口伝の形で伝えられてきたが、その一族の口伝を一言違わず記憶し、継承可能な者だけが一族のタオとして尊敬を得ることができた。長老は20代の半ばからその才能を見いだされ、先代からの直伝で一族の出自と掟を受け継いでいたのだった。

    口伝に曰く。「我らは、その昔、あの白い山並みのはるか彼方の谷間より来たれり」
    すなわち、長老が先代から引き継いだ口伝によれば、この赤毛の一族は、遠い昔、あの白い山並み、つまり今日でいうピレネー山脈のはるか彼方のとある谷間を拠点に暮らしていたという。住まいは南北を東に面して走る小高い崖の中腹に開かれた横長の岩棚で、眼下にはどの場所からも豊かな雑木林と草地と川の流れをのぞむことができた。春ともなれば木々は一斉に芽をふき、やがて濃い緑の葉を茂らせ、色とりどりの草花が野に咲き乱れ、蝶や蜂や黄金虫たちがその蜜に群がり、冬の眠りからさめた動物たちもつぎつぎに巣穴から顔をのぞかせ始めた。暑い夏がすぎ、秋になれば林の木々は実をつけ、ヒトも動物たちもその採集におわれた。冬は、時には大雪に見舞われることもあったが、堪え難い寒さにふるえるようなことはめったになかった。岩棚の住まいからは四季を通じ、動物たち、すなわちバイソンやオーロックス、シカ、ウマ、ヤギなど狩りの獲物の谷間を行き交う様を手に取るように眺めることができた。あの白い山並みの遥か彼方の谷間は一族にとっては悠久の楽園であった。

    そして、口伝に曰く。「やがて寒さいとも厳しくなりし頃のあるとき、北の方より姿かたち怪しき族が群れをなして来たれり。」
    つまり、何時しか冷夏の年が増え、冬の寒さが増し、同時に川向うの森の北側に異様な姿かたちをした怪しいヒトの群れがやってきた。そのものたちは、やや細身で背筋がのび、足は長く、毛髪は黒。肌は小麦色で、時にはその顔や腕が赤や白で塗られていることもあった。それは明らかに一族とは違う族であった。その足長の族たちは、やがて森に連なる山をひとつ越えた平地に群れをなして住むようになった。住処は木と草と獣の皮でできた小さな竪穴の庵でそこに子供も含めて5、6人が寝食をともにしていた。彼らは槍を驚くほど遠くに飛ばすことができ、獲物をたやすくしとめることができた。川で魚をしとめることも得意なようであった。群れの数は年ごとに増え、山のこちら側の森の中でも彼らの姿を見かけるようになった。時には、狩りの際に山中で遭遇し、互いに手話で様子を伺い、飾り物や石の道具を交換することも稀ではなかった。そして、時には足長の彼らがこちらの岩棚を訪ね、赤毛のものたちが山の向うの庵を訪ねることもあった。足長の族の住む庵ではいろいろ珍しい品を見ることができたが、中でも奇妙なのがヒトの形をした土の塊だった。足長の族たちは、そのヒト形の土の塊を片時も話さずに胸に抱いているようであった。また、時には、互いに若い女を連れて帰ることもあった。かくしてわが赤毛の一族と足長の族たちの間にはなにひとつ諍いの種は生じなかった。ところが、であった。

    更に口伝に曰く。「されど、寒さが更に厳しさを増すにつれ、かの族たちは平地にあふれ、やがて獣と木の実をめぐる諍いが頻発せり。時にかの族たちは激しく我らを襲い、獣どもをことごとく駆逐し、木の実をことごとく採りつくしたり。」 すなわち、周囲の寒冷化が更に進むとともに、異族たちの北からの移動も激しさを増し、赤毛の一族の猟場も次第に彼らに侵害されるようになった。赤毛の一族ももちろん抵抗はした。が、かの足長の族たちは、闘いのための道具、戦略、群れの大きさのどれをとっても赤毛の一族のかなう相手ではなかった。当初、時には山野で両者あい争ったが、その度に赤毛の一族は大敗を喫し、遠くから放たれる槍で躯を貫かれるものも少なくはなかった。
    「かの族ども、侵略する時は火のごとく、」と口伝にあるように、先住の異族らを襲う足長の族たちは、赤毛の一族にとって極めて獰猛で冷酷、野蛮な族どもであった。そして、口伝は「かくして我らあの岩棚をかの族どもに明け渡し」と続き、一族は住み慣れた谷間を去り、新しき猟場を求めてあの白き山並みの西までやってきた。長老が継承した口伝は、その頃に再編された伝承であった。一族はそれから更に谷間にそって西に進み、長い歳月を経て現在のカンタブリアに拠点を定めたのであった。

    「我らは、その昔、あの白い山並みのはるか彼方の谷間より来たれり…..。」
    「我らは、その昔、あの白い山並みのはるか彼方の谷間より来たれり…..。」


    長老は最後に口伝の冒頭の一節を吟じ、皆も復唱して祈りの場を後にした。



    [4] 岩陰の晩餐

    男たちが洞内から戻ると、岩陰の大広間は既に獲物の肉を焼く白い煙と匂いで満ちていた。その獲物の焼けるのを横目で見やりながら、隣の家の男と女たちは獲物の分け前を受け取り、家族の待つ自分たちの岩陰に黙々と引きあげていった。分け前は全体のおよそ半分で、スネを含む前脚とモモ肉のついた後脚1本づつ、右の骨付きのバラ肉ひとかたまりと背骨から尻にかけたひとかたまり、それに臓物の入った牛の革袋2個であった。頭部と毛皮は、狩りを仕切った長老の一家に残されたが、そのうち毛皮は後日なめされて切り分けられたのち、贈り物などのかたちで同胞の家族に分け与えるのがしきたりになっていた。自然の恵みを全て平等に分かち合う事が一族の絆を強め、その結果として互いに生き延びることができることを、この一族は遥か昔から会得していた。

    岩陰の大広間では奥から出入り口にかけて炉が3カ所焚かれていた。 一番奥の炉端には長老とその若年寄りたち2人、一番槍と二番槍の男が次々と腰を下ろし、そこへ長老の姉御にあたる老婆1人と35歳前後の女たち3人が加わった。一番槍は皆からレオと呼ばれており、歳は50歳前後、槍の名手で長老の片腕として長年狩りを仕切っていた。二番槍はドムドムと呼ばれており、歳は48歳前後、狩り場では一番槍を補佐し、普段は石の道具作りを仕切っていた。姉御は、カスティ−ジョの生まれで草木の効能に通じ、皆からは「薬師」と呼ばれて尊敬されており、生涯他の一族に嫁ぐ事はなかった。他の女たちは、今日、ラマーレスと呼ばれるカスティ−ジョから約50キロ東の山間部に開口しているミロンという洞窟に住む一族の出で、内1人はその歳生まれたばかりの赤子を抱えていた。女たちは18歳の頃、この一家に嫁いできて若年寄りたちとの間にそれぞれ10人近い子供を授かった。が、現在まで生きのびているのは息子4人と娘5人。その息子のひとりもその日の狩りで死んだ。若年寄りたちたちにしても、もともと十数人もの兄弟姉妹がいたが、今、残っているのはたった2人の兄弟と他の一族に嫁いでいる姉妹3人だけであった。

    真ん中の炉の周りには一番槍と二番槍の息子たち3人が腰を下ろし、20歳前後の若い女たち5人がそこに加わった。また狩で犠牲になった兄弟1人の槍がその間に添えられた。女たちの1人は長老の孫娘で来春には他の一族に嫁に出ることになっていた。他の4人は今日のビスカヤ地方から嫁いできていた女たちで、内3人が乳飲み子を抱えていた。

    入り口に近い炉の周りには子供たちがじっと肉の焼けるのを待っていた。4歳から15歳くらいまでの男子女子あわせて12人だった。彼らにも元来は倍以上の兄弟姉妹がいたはずであったが、その大半が4歳にも満たない内に飢えや病で死んだ。

    その日の夕餉は、長老一家にとっては久しぶりに気張ったものであった。各炉端の一画には細かく砕かれた塩がいつになく高く盛られていた。塩は山菜や肉の塩漬けをはじめ、疲労の回復などのためにも一族にとっては欠かせない食材のひとつであったが、カスティージョの一族は、その塩を、30キロほど西の現在のカベソン・デ・ラ・サル付近の山で採れる岩塩を採取して得ていた。遥か昔には現在のピレネー山脈東側のサリスドベアルヌ地方で採れるよりきめの細かいさらさらとした塩を得ていたこともあったが、そのルートはいつしか途絶えていた。塩は、近くの海岸でも採れたがその量はわずかで近隣の需要を満たすには至らなかった。

    晩餐のエントリーに振舞われたのは一族に昔から伝わる果実酒だった。酒を醸す技を受け継いでいたのは長老の姉御で、彼女は、毎年春から秋にかけて採集した木イチゴやヤマブドウ、あるいは山栗などから酒を醸し出し、それを牛の革袋に入れて、2年から3年、岩陰の奥の窪みで熟成させていた。その晩、まっさきに振舞われたのは、彼女が3年前の夏、この山で採取した木イチゴを自ら口噛んで醸したもので、飲むとやや酸味があるもののかなり甘みの強い濃厚な果実酒に仕上っていた。男たちはその木イチゴの酒を順にまわし飲みし、舌鼓を打った。 

    肉は、普段、昼と晩に1日2回、シカやヤギ、オーロックスの干し肉が配られたが、その日の晩は、もちろんオオツノジカの焼き肉だった。手の平大に切られた骨付きのバラ肉が各炉端に山積みされ、焚き火の周りの焼けた石の上で、ジュージュー白い煙をあげていた。バラ肉はシカ肉の中では比較的脂身が多く、干し肉にするにはあまり適さなかったために、狩りのあとは真っ先に食されることが多かった。昔、獣の肉はしばしば生で食っていたが、そのために病になったという噂もひろがり、いつしか肉は火で焼くか煮るかして食うようになっていた。肉を焼くには、骨付きのまま塩をふりかけて直接火であぶるか、石焼きにされた。バラ肉の場合、焼け残った骨は、そのまま歯や石で割って髄を食ってしまうか、そのまま干して保存された。肉を煮るには牛の革袋と焼け石が使われた。その晩も実は獲物から取り出した肝臓、心臓、胃、腸などを山菜と一緒に革袋に小分けし、そこに水と塩少々を加え、炉で焼いた小石を投げ込んで煮込んだ鹿モツの煮物が振舞われていた。獣の肉の中で最も人気があったのはタンであったが、その晩、オオツノジカの舌は薄く切られ、長老と若年寄りたちの炉端で白い煙を上げていた。

    その晩、他に振舞われたのは栗の実とドングリの粉でつくった団子だった。栗の実は、皮をつけたまま思い思いに火にくべられ、はじけた順に棒でかきだして食った。ドングリは、古来この地方の主要な産物で、採取した実から皮を取り除き、中身を灰汁でアク抜きして粉や団子にした。団子は、木の棒にさして焼いて食うものもいたが、臓物と一緒に革袋に放り込み、焼き石で煮て食うものもいた。

    久しぶりの馳走ではあったが、そうした贅沢がそう長くは続かないことも皆わかっていた。栗の実もドングリも、昔は、実はこのあたりではふんだんに採れ、一族にとっては主食のひとつに数えられていたが、近年は既にめっきりとその量が減り、なかなか得難い食材となっていた。この地方も何時しか冷夏が続くようになり、川沿いの一部を除き、森そのものが山から消えてしまったからであった。収穫が減ったのは木の実だけではなかった。樹木が減れば、その皮や実を食む獣の数もそれだけ減ることになる。昔はバイソンやオーロックス、オオツノジカなど大型の獲物が1年を通して眼下の谷間を行き交っていたものであったが、このところはその数も年々減る一方であった。久しぶりのオオツノジカの肉を口にしながら、大人であれば誰もがこの先の猟に不安を感じていた。それにもう一つ心配の種があった。今日も狩り場で見たあの足長の男であった。もしやあの男は口伝に聴く、北からやってきたあの凶暴な足長族の手のものか?とすれば、彼の族たちは我らの土地を奪うためにとうとうこの地までもやってきたのだろうか?男たちは誰もがそう自問していた。

    対岸の岩陰から立ち去ったあの足長の男について長老が言葉を発したのは、炉端の肉もようやく残り少なくなった頃であった。 「ところであの足長の男についてだが」と、長老は両脇の若年寄りたちに向って切り出した。
    「あのような足長の族については、既に承知のように昔から言い伝えはあった。しかし、それはあの白い山並みのはるか向うの話で、それがこの地まで及ぶとはついぞ思ってはいなかった。ところが、あの足長のよそ者については、実は、このわしもこれまでに何度か見ることがあった。それはわしがまだ若い頃のことで、ラマーレスの一族とともにマンモス狩りに出た時だった。わしらは三日三晩獲物を追って東の谷間を走り廻っていたが、その谷に沿った高台の岩陰を移動しながらやはり今日のようにじっとわしらを見ている者がおった。」
    長老がいうラマーレスの東の谷間とは、今日のカランサ川沿いの渓谷でカンタブリアとバスクの境界にあたり、その北側の石灰岩の斜面にはペンタ・デ・ラ・ペラ、アルコA、アルコB、ポンドラなどの洞窟が次々と開口していた。中でもポンドラは開口部の岩陰が極めて広く、かつて別の家族が住んでいたこともあるが、他は同族の狩人たちがもっぱら野営地として季節ごとに利用していた。カスティージョの長老も若い頃には何度かそれらの岩陰に寝泊まりしながら大物の狩りに参加していたのである。
    「で、いつまでも執拗にわしらを追ってくるので、追い払うべきか、捕らえるべきか、とラマーレスの長に問うた。が、その答えはどちらに対しても<待て>だった。ラマーレスの一族にも、実は、あの足長の族について我らと同様な言い伝えがあり、その口伝によれば、彼らはあの白い山波の向こうに大勢群れをなして住んでおり、その狩りの様子を見る限り恐ろしく凶暴で危険であるため、その連中とは仮に遭遇したとしても一切関わりをもつべきではない、ということだった。今日、わしが<待て>と合図したのもその言い伝えを聞いていたからでもあり、また、その族たちが、もしも、我らが祖先を苦境に追いやった北からの異族と同じ族だとすれば、ここは、やはり慎重をきすべきかと思ったからである。ただ、ああして怪しげな男たちがこのあたりまでやってきたということは、やがてその恐ろしい族たちがそろってこの土地にやってくるやもしれず、はたしてこのまま見過ごしてよいものだろうか、と思案しているのだが….」
    長老のその言葉にすかさず口を挟んだのは二番槍の男だった。
    「私も以前一度見たことがあります。それは、北の海辺の仲間たちの招きでバイソンの狩りに出たときのことでした。我々が海沿いの尾根沿いに5日ほど東に移動したところ、眼下の谷間で見た事も無いような男たちが大勢でトナカイの群れを追っているのを目撃しました。見ていると彼らはとんでもなく遠くから一斉に槍を飛ばし、その槍がまるで雨のようにトナカイの群れに降り注いでいました。われわれは恐ろしくなり、その日は狩りをやめてとりあえずすぐそばの野営地に引き返えすことにしました。」
    続いて一番槍の男も口を開いた。
    「私は、ヒトの姿を見かけたのは今日が初めてでしたが、この春、この下の海辺の洞窟の奥で我らの手形と同じような印を見たことがある。それはひょっとすると彼らが残した手型なのだろうか。」
    「印といえば、私も、この夏の終わる頃、塩の山にちかい海辺の洞窟の壁に赤い点々と槍先のような鋭い線が何本か印されているのを見た。」二番槍の息子が続いた。
    ヒトの手形も赤い点や線も、一族にとっては、ある意味で部族の標識のようなもので、その場所の占有権を誇示するものでもあった。と、すれば事態はかなり急を要するものとなっていた。
    その深刻さに、一瞬、沈黙が走った。
    「うーむ、そうか、となると、ますますこのままでは済まなくなる。なにか良い策はないものだろうか」と、しばらくして長老は言った。 その言葉に真っ先こたえたのは一番槍の男だった。
    「であれば、われわれもヒトを出し、まずは彼らの動きを探ってみるべきではないでしょうか」
    二番槍の男も続いて言った。
    「私もそうすべきかと思います。あの白い山並みの向うで一体何が起こっているのか、あの族たちがどういう生活を営み、何を企んでいるのか、まずはその事を確かめるのが先決かと思います。」
    長老は暫く口をつぐんでいたが、最後にこう結論した。
    「よし、わかった。お前たちの言う通りかも知れない。しかし、このことは我らだけの問題ではない。まずはモリンやミロンの兄弟たちとも相談し、一族全体として何をすべきかを決めたいと思う。」

    「我らは、その昔、あの白い山並みのはるか彼方の谷間より来たれり…..。」に始まる類似の口伝を継承する家族は、実は、このカンタブリアにはカスティージョの他にも幾つかあった。それは、ラマーレスのミロン、カスティージョから5キロほど西のペーニャ山に開口するオルノス・デ・ラ・ペーニャ、北の海岸に近いモリン、エル・ペンドの各洞窟に住まう家族で、口伝によれば彼らは皆あの白い山並みのはるか彼方の同じ谷間の出であった。それがいつしか北の異族に追われ、長い長い年月を経て一昔前に現在地にたどり着いたのである。途中、先住の同類の部族との交わりがあったとはいえ、元来同じ一族であったことから、その風貌も言葉も生活習慣もその多くが共通していた。やや前かがみではあるが頑健な肢体に頭髪は赤または茶色。肌の色は白く、眼は蒼かった。生活の糧は狩猟と採集で、大型の獲物を狙う際は、しばしば狩り場に近い家族と共同して事にあたった。狩りや生活に必要な道具も似通っていて、石を割っただけの単純な石斧や掻器から比較的手のこんだ小型の石刃や槍先までその種類も少なくはなかった。カンタブリアにはそのところどころに、彼らがやってくる遥か昔から先住の民が居住していたが、その多くは南の山を超えてやってきた部族で、躯つきは似てはいたものの髪の色は黒、肌の色はやや茶色で眼の色も黒に近かった。石の道具もただ丸い石を割っただけの素朴なものばかりであった。赤毛の一族と先住の一族は、長年、幾つか谷間を隔てて生活していたが、その猟場や森は互いに棲み分けされ、時に協力することはあっても決して争うことはなかった。そこへ、今度は、また新たに彼らとは全く別の、しかも、ひょっとすると口伝に聴くところのあの凶暴で強欲な足長の族たちがやって来ようとしている。こうしてカスティージョとしては、翌日、早速、ミロン、モリン、エル・ペンド、オルノス・デ・ラ・ペーニャに使いを出すことにし、その晩の話し合いはとりあえずお開きとなった。

    腹を満たしたあとも皆には休む暇はなかった。女たちは保存用に残した獲物の肉をこぶし大の塊に切り分け、それを牛の皮袋に小分けし、塩をふりかけてもんだ後、岩陰の窪みに仮り置きした。塩漬けにした肉は10日間ほど袋の中で熟成させ、手の指程度に小さくそぎ落としてから細い木の枝にぶら下げて乾し肉にする。こうしてできた乾し肉は、何ヶ月も腐らずに保存できた。食べるときはそのまま食うか、水で塩抜きして食う場合もあった。

    力のいる毛皮のナメシは男たちの仕事だった。オオツノジカの毛皮は広げると幅4メートル長さ3メートルはあったので少年を含め若いものが4人がかりで前処理にあたった。彼らはまず、岩陰の入り口の平らな地面に裏面を上にして毛皮を拡げ、その上に水をそそぎ、皮についている油や肉を草や木片の先でごしごしと洗い落とした。毛のついた表側も同様に血痕や泥などの汚れをきれいに水で洗い流し、それから岩陰の片隅に用意した太い木の棒に二つ折りにして干した。その晩の男たちの仕事はそれまでで、あとは数日かけて本格的なナメシの作業に入る。皮のナメシにはやはり塩が使われた。肉や脂の削り取られた毛皮はその裏側に丹念に塩をすりつけ、それから約10日ほど岩陰の片隅で陰干しした後、ほぼ乾いたところで菜種の油をすりこみ、全体に滑らかさが出てきたところで更に陰干しして仕上げた。なめされた毛皮は、帽子、衣服、靴など用途に応じて裁断された。

    家族の全員が仕事を終え、一段落したのはすでに夜半過ぎになっていた。男も女もそれぞれ何時もの岩の窪みに横になり、眠りについた。中にはひとつの寝座にもぐりこむ若い男女もあったが、それが常に同じ相手というわけでもなかった。赤毛の一族は、いわば男系の集団ではあったが、母子以外に実の親子の関係はなかった。つまり、一族のものたちには実の父といえるものがいなかった。子は皆一族の共有の息子であり、娘だった。

    岩陰の中は夜がふけるとともに一段と寒さが増した。その晩は特に冷え込みが厳しかったため、火を絶やさないために若い男がひとりだけ真ん中の炉端に居残った。男は炉を前にして胡座をかき、時々焚き木をくべてはゆれる炎をじっと見つめ続けていた。周囲の寝座からは色とりどりのいびき声が聞こえ始め、岩陰の外ではドール(赤オオカミ)の遠吠えがいつまでもなりやまなかった。

    翌朝は、雪もやみ、一族が眼をさます頃には、既に明るい陽射しが入り口の仕切りの隙間から岩陰の奥まで差し込んでいた。外は輝くばかりの雪景色で久しぶりの青空だった。眼前に広がるパス川沿いの谷間もすっかり新雪に覆われ、その中をゆっくりとこちらに向かってくるトナカイの群れを遠望することができた。洞窟のそばの岩場ではわずかに残された草場を求め、アイベックスの群れが登り降りしていた。そんな雪景色の中を同族の住処を目指し、一番槍と二番槍が長老の使者として下って行った。



    [5] 長老会議

    カスティージョからの呼びかけにより、5日後の午後、エル・ペンド洞窟に於いて赤毛の一族の長老会議が行われることになった。
    エル・ペンド洞窟は、今日のサンタンデール湾に近いエスコベード・デ・カマルゴの比較的なだらかな丘陵地帯にそそり立つ北向きの崖下に開口しており、モリンからは半日、カスティージョとオルノス・デ・ラ・ペーニャからは約1日、ミロンからは2日の距離にあった。北に隣接する海岸地帯と南の山岳地帯の中間に位置し、古来、大型の獲物の通過する十字路となっていたため、狩猟の民にとっては要の地のひとつであった。

    長老会議に参集したのはカスティージョ、ミロン、モリン、エル・ペンド、オルノス・デ・ラ・ペーニャの長老とその若年寄各2名で、合計15名の代表がエル・ペンド洞窟の開口部に続く広間に集まった。広間は巾約30メートル、奥行き50メートル、天井の高さも最大5メートルはある巨大な空間で、薄日の射す入り口付近が住まいとして利用されていた。入り口から左の岩壁にそって幾つか灌木の枝とシカの毛皮でできた囲いが見え、その内側から立ち上る3スジほどの白い煙が天井をはっていた。囲いの切れ目からは何人もの女、子供たちの好奇な眼差しが垣間見えた。

    大広間の最奥部はその全面が垂直の岩壁で仕切られており、長老たちは、その中央部手前の薄う暗がりの窪みに設けられた大きな炉の周りに腰をおろした。炉の炎に赤く照らし出された長老たちの顔と顔には、それぞれ事態の深刻さが見てとれた。岩壁を背に座したのはエル・ペンドの長とその若寄2名で、まずは洞窟の主であるエル・ペンドの長が長老会議の開催を宣言した。
    「今回は、カスティージョの長、タオからの呼びかけにより、この場所で急遽、会することにあいなり申した。同胞の皆さま方にあっては、冬支度の砌、全員快くご参集いただき私からも暑く御礼を申しあげます。」
    エル・ペンドの長は、カスティージョのタオよりやや年上で、若い頃からあご髭をたくわえていた。
    「で、今回の話し合いは、近年、しばしばこの地で見かけるようになった足長の異族についてでありますが、この件につきましてまずは発起人のカスティージョの長から事情を説明していただきたい。」
    そこでカスティージョの長老タオが立ち上がり、このまま手をこまぬいていれば、間もなく恐ろしい事態になりかねない状況を自らの体験をまじえて説明し、その対策について一同の知恵を請うた。と、モリンの長が口を開き、「あの足長の族については、最近、我々の近くでも見かけるようになった」と次のように報告した。

    「それは今年の夏の始めの頃であったが、我らが獲物を求めて北の入り江にさしかかった際、眼下の磯辺に怪しげな男の影が3つほど見えた。よく見ると足が異常に長く、細身の躯ですぐに我らとは違う族とわかった。そして驚いたことに、彼らは先の尖った細長い棒を素早く海中にさし込み、生きた魚を安々と捕まえているようであった。そこで我らはどうしたものかと思案したが、それから彼らは磯辺の岩陰で火を起こし、捕まえた魚を焼いて食い終わるとさっさと東の方へ去っていった。我らはどうするわけでもなく、そのまま見過ごすだけだった。それにしても彼らがいともたやすく魚を捕まえる様は空恐ろしいほどであった。」

    続いてミロンの長が口を開いた。
    「我らもこの春に同じような怪しげな男の姿を見たが、それは我らが川を遡り、北の海辺の河口に石の道具の材料を採りに行った時であった。何時もの河原にさしかかると、そこには既に槍を片手にした2つのヒト影があり、欲しい石を探し求めている様子であった。ヒト影は、ほっそりとしてどう見ても我らとは異なる部族のものであった。我らは川辺の木陰に身を隠し、暫く彼らの様子を伺った。彼らは、あちこちと河原を探し回った後、幾つか望ましい石を見つけたためか、二人そろって川縁に腰を降ろし、膝の上で石をたたき始めた。作っていたのは槍の穂先のようで、作り終えると携えていた槍先にくくりつけ、そのまま向こう岸へ去って行った。彼らが石を叩いていたその場所に行ってみると、そこには細かい石のかけらと一緒に作り残した石核が2個、それに先端がかけた細長の穂先がひとつ転がっていた。石核は上下が平らに打ち割られたもので我らのものとさほど変わりはなかった。ただ、残された石のかけらを見る限り、仕上げた穂先はかなり小ぶりのようであった。細長の穂先のかけらはこのあたりでは見かけない黒光りした石でできたもので、その側縁はかなり鋭く仕上げてある。」 ミロンの長はそう言い終わると、懐からその黒光りした穂先のかけらをとりだして皆に見せ、隣に座っていたカスティージョの長老に手渡した。長老は、穂先の側縁を親指の腹で触れ、その鋭さを入念に確かめた後、隣の若年寄りに廻した。

    ミロンの長の話を聴き、オルノス・デ・ラ・ペーニャの若年寄りが「細身で足長の族であれば、わしらも出会ったことがある。」と、こう報告した。

    「それは、この夏、我々の森でシカを追っている時だった。深い薮の中でふと気づくとなんと目の前に躰中を赤や白で塗りたくった男がひとり突っ立っている。わしも驚いたが相手もびっくりした様子だった。男は背丈ほどの槍をもっていたが、わしにむかって身構えるでもなく、しばらくはじっとわしの顔をうかがっていた。と、そこへわしらの仲間がやってきてその男を囲むかたちになった。すると男は、ようやく後ずさりを始め、我らが近づこうとするのを見てくるりと向きをかえ、そのまま走って木立の中に消えた。今でも覚えているが、男は躰全体が浅黒く、髪も眼も黒かった。躰中に塗りたくったあの赤や白の泥の色がなんとも恐ろしかった。」
    「恐ろしいといえば、この夏の終わり頃にわしらのところではこんなことがあった。」
    と、続いてエル・ペンドの若年寄の一人が立ち上がって言った。

    「それは、女たちがこの下の渓流沿いに群生する木イチゴを集めに出た時だった。陽がおちる頃には、皆、この住処に引き上げてきたが、ミミという一番若い娘がひとりだけ遅れているようだった。暫く待ったが、あたりがかなり暗くなり始めてもまだ娘の姿は現れなかった。そこで男たちも心配になり、我ら全員で谷間の川べりまで探しにおりた。そして、木イチゴの繁みの中を暫く探しまわった時だった。谷間は既に暗い陰闇で閉ざされていたが、それでも川向うの繁みの中にかすかにヒトの動く気配を感じた。もしやと思い、眼を凝らして見た。すると、なんと大きな細身の男が3人、女ひとりを草むらの中にむりやり押し倒そうとしているところだった。女はミミだった。ミミは手足をばたつかせて死にもの狂いで抵抗している様子だった。わしは、もちろん、大声で怒鳴った。その声に兄弟たちも気づき、川向こうをめざして一斉に川の流れに踏み込んでいった。と、われらに気づいた3人は、一瞬こちらを凝視するやそのままミミを置き去りにして脱兎のごとく繁みの奥に逃げて行った。ミミは健気にもすぐ立ちあがり、逃げ去る男たちの後ろ姿をじっと眼で追っていた。近づいてみると、特に大した怪我はなさそうだった。が、さすがのミミも恐ろしかったのだろう、顔は青ざめ、躰中に震えがきているのがすぐにわかった。」 これまでの報告は、あの足長の異族を見たか、遭遇しただけの話であったが、今の話は、実際に一族の若い娘がさらわれ、陵辱されたという、男たちにとっては許し難い事件であった。
    「それでその娘には、何事もなかったのか」と真向うに座っていた若年寄のひとりが質問した。
    一族の男たちにとって、同胞の娘が異族の男に犯されたかどうかは、極めて重大なことであった。一族にあっては、力ずくで女を犯すことは親兄弟で交わる事と同じくタブーとされていた。ましてや、異族の男に力ずくで犯されたとなれば、その男はもちろん、犯された女の立場も危ういものとなった。異族の子を宿すことは、一族にとって絶対に許されざることであったからである。
    「それはミミに確かめたが、力で押さえつけられた以外は何もなかったらしい。そこで、その日は、既に陽が落ちる頃でもあったため、奴らを追う事はせずにそのままミミを連れて引き上げてきた。」
    「翌朝は、あたりを探したのか。」
    「もちろん、日の出から日暮れまで一日中探した。が、ウチの若い者5人が全員で探しまわったがこの近くにはどこにも見当たらなかった。多分、前の晩の内にかなり遠くまで逃げてしまったのだろう。いずれにしても何時かは捕らえて罰を与えなければならない。で、そのミミなのだが…」
    と、ここまで話をしたところで若年寄りはひと呼吸おき、少し離れた場所にずっとしゃがみ込んでこちらを見ていた女をひとり手で招き寄せた。炉の炎で照らし出された女は、まだ十八そこそこの小娘だった。身の丈は約155センチ前後。肩先から胸元まで垂れ下がった髪の毛は燃えるような赤。この部族にしてはやや小ぶりの丸顔で、くりくりとした利発そうな眼が眉の下の窪みで蒼く輝いていた。その娘がミミであることは、紹介されるまでもなかった。ミミは、長老たちを前に軽く頭を下げ、自分を呼んだ若年寄の言葉をやや不安気な面持ちで待った。 何事もなかったとはいえ、あの時のことを、再び問われることが恐ろしかったからである。が、問題はその事ではなかった。

    ミミは、実は、あの時、男たちが逃げ去る際にひとりの男の首から石の飾り物をひとつ引きちぎって持ち帰っていた。若年寄は、その飾り物を皆に見てもらうようにミミに促した。そこで、ミミはそれまで握りしめていた左手を開き、「これがあの男のひとりから奪ったものです。」と言いながら細い革紐のついた小指大の黒い石をひとつ右手にかざして見せた。それは、かなり簡略化したものではあったが、豊かな尻を後ろに突き出し、やや前かがみの姿勢をとった成熟した女の像で、赤毛の一族の者にとっては初めて眼にするものだった。

    その日、カスティージョからは、長老を補佐するかたちで二番槍のドムドムとその息子衆のマオマオと呼ばれる青年が一人付き添っていた。ドムドムは、カスティージョでは石器作りの達人でもあり、またマオマオもドムドムについて石器作りの修行中であったため、ミミのかざしていた黒い石の飾り物がこの地方の川原でもよく見る「黒玉」であることが二人にはすぐにわかった。が、二人が驚いたのは、その石の像の頭の端に革紐を通すための小さな穴があけられていたことだった。
    「黒玉はものすごく硬い石である。その黒玉をあんなヒトの形に仕上げることもさることながら、その頭にあのような小さな穴をあけるとは、一体、彼らはどんな道具をつかったのだろうか。」
    そう自問したドムドムは、ミミに請うてその黒玉の飾り物を自分の手にとって革紐からはずし、その穴のあき具合を注意深く観察した。穴はどうやら何か硬いもので丹念にこじ開けたようであった。ドムドムは、できればこの飾り物を手本に自分でも同じような飾りものを作ってみたい衝動にかられた。
    と、かたわらからその黒玉の飾り物を見ていたカスティージョの長老がドムドムの思いをさえぎるように口を開いた。
    「これは、たしかに女の像であるが、とするとこれはわれらの口伝にある北の異族が大事に携えていたあの<ヒト形の土の塊>と同じ類いのものかも知れない。だとすれば、この石の飾りものはあの北の異族に力と恵みを与えるものであり、逆に我らにとっては災いのもとになるやも知れない。よって、このようなヒト形の飾り物は、直ちに砕いてなきものにすべきかと思うがどうだろうか。」
    カスティージョの長老のこの意見を聴き、ドムドムもマオマオもミミもやや不服そうであったが、もちろん、若年寄りたちにも若い娘にも反論する術はなかった。他の者たちの眼にもそのヒト形の像はいかにも怪しげで不吉なものに映ったようで、異論を述べるものはいなかった。 「こんなものは確かにない方がよい。」
    こうして、一同、暫くは近くのものたちと話を交わしていたが、結局、ドムドムとマオマオとミミを除き、おおむね全員がカスティージョの長の意見を受け入れ、座長であるエル・ペンドの長が最後に決を下した。
    「では、ヒト形の像については、カスティージョの長の意見に従い、今、この地にあるものは直ちに砕いて焼き捨て、将来についても同様とする。」
    こうしてこの赤毛の一族の間では、ヒトの形を模した像は一切禁制となった。そして、ミミが奪ってきた黒玉の女の像は、直ちに皆の前で打ち砕かれ、そのまま炉の火中に投げ込まれた。

    ミミの一件は、ここで落着となり、会議の話題は「この状況をどう理解し、どう対処するか」という本題に入った。そこで座長の求めにより、再びカスティージョの長がこう言い放った。
    「これまでの皆の衆からの報告からしてみても、あの足長の族たちが、この地に入り込もうとしていることは明白である。なぜならば、彼らは、単なる物見のため旅ではなく、これまで我らの土地のあちこちで川原の石を採取し、川の深さを計り、塩の山を歩き回り、我らの狩りの様子をうかがっている。これらの行動は明らかに侵略のための下調べであり、とすれば我らとしては、彼らの計画は断じてこれを阻止しなければならない。そこで、そのためには、まずは我らの側からも探りの者を使わせ、あの白き山並みの向こうで、今、何が起こりつつあるかを知ることが先決かと思うがいかがであろうか。」
    この提案を受けて各洞窟の長から次々に意見が出された。
    ミロンの長はこう述べた。
    「我らもカスティージョの長と同じ考えである。彼らの侵略の意図はあきらかであり、断じてこれを許すことはできない。敵の状況を探るためには何時でもヒトを出す用意ができている。」
    オルノス・デ・ラ・ペーニャの長はこう述べた。
    「我らもカスティージョの長とほぼ同じ考えである。特に寒さが厳しくなり始めてからこの方、彼らがあの白き山並みのこちら側に移りたい意図はあきらかである。ただ、いたずらに事を荒たげることは慎むべきであり、なにはともあれ我らの側からも使いを出し、彼らの状況を探る事が肝要かと思う。」
    モリンの長はこう述べた。
    「我らも基本的にはカスティージョの長と同じ見方である。ただし、彼らの携行する槍や川魚を採る道具、更には遠くまで槍を投げる仕掛けなどを見るにつけ、彼らの闘う力はあなどれないものがある。従って、ここは我らとしては慎重に対処し、そのためにもいち早くかれらの状況を探らなければならない。」
    エル・ペンドの長は、総括してこう述べた。
    「我らも皆の衆と同じ考えである。足長の異族の意図は明らかであり、ともすれば来春にも彼らの侵攻が開始されるかも知れない。ここは直ちに探りを出し、この冬、寒波がやってくる前に彼らの状況を把握しなくてはならない。」
    こうして、探りを出すことが一族の総意として認められ、具体的には、若年寄たちの意見も取り入れながら「探りはカスティージョから2人、他の洞窟から各1人で合計6人。3人づつが二手に分かれて山間の道と海沿いの道を進み、今日でいうサン・セバスチアンの手前の山間に開口するエカイン洞窟で合流する。そして、その後、共にト−レ洞窟を経て海側から白き山並みの東側に回り込む」という片道約10日の行程が決められた。山間の道を行くのはカスティージョのドンドンとマオマオ、それにミロンのカインと呼ばれる若年寄りで、一旦、ミロンに集合して出発は5日後の新月の夜明け前と定められた。海沿いの道を行くのはモリンのペロンと呼ばれる若年寄り、オルノス・デ・ラ・ペーニャのベンと呼ばれる若年寄り、それにエル・ペンドのミミで、出発はそれぞれ同じく5日後の新月の夜明け前。3人は一旦、今日でいうサンタンデール湾の東の丘陵地帯に開口するラ・ガルマ洞窟に集結すること定められた。また、6人には、途中、例え異族と遭遇しても極力闘いは避けること。万一、敵に襲われることがあっても3人の内1人は必ず帰還して報告を可能にすること。道行き一宿一飯の世話になる同族に対しては礼をつくし、有事には共同して事にあたるよう我らの意思を伝えること、などが申し渡された。長老たちは、それから、探りたちの出発を祝って軽い宴会を催し、全員、エル・ペンドで一夜を明かして帰路についた。探りに選ばれた6人は、それぞれ使命を果たすべく全力をつくすことを自分にいいきかせた。そして、ドンドンとマオマオ、それにミミの場合は、本来の使命感に加え、探りを通じて知ることができるであろう異族たちの目新しい道具や飾り物やそれらを作る術について期待を膨らませた。



    [6] 内陸ルート:旅支度

    足長の異族の偵察行を命じられたカスティージョのドムドムとマオマオは、翌日から早速出発の準備にとりかかった。ドムドムは身の丈約170センチ。胸板がひときわ厚く、毛むくじゃらでがっしりとした体格の持ち主だった。生みの母はラマーレスのミロン一族から嫁いできた女だったが、彼が25歳の年の秋、カスティージョ山中で栗のみを採取中、体長3メートルもあるホラアナクマに襲われて死んだ。長老の妹とは腹違いの姉妹だった。マオマオは20歳で身の丈約168センチ。赤毛の一族としてはやや細身で、彫りの深いその顔には繊細さがただよっていた。生みの母は同じくラマーレスのミロン一族から嫁いできた女で、皆からはスーシーと呼ばれ、晩餐の炉端ではドムドムの隣に座っていた。草木に詳しく、一族の薬師の後継と看做されていた。マオマオは、日頃から石の道具作りに秀でたドムドムに付き従い、ドムドムの技を見習おうと努めていた。マオマオが探りに選ばれた事を母親のスーシーに告げると、スーシーは「ああ、そう。それは大変なことになったけれど、皆のためにどうかしっかりがんばるように」とこと細かに旅の支度を手伝ってくれた。

    旅支度でまず必要なのは食料だった。最短で20日間の旅になることが想定されたが、途中、同族の世話になることも計算に入れ、スーシーは出発時に携行する一人分の食糧を予備も含めて3日分とし、シカの干し肉1.5キログラム相当をそれぞれ二人に与えた。塩は干し肉に含まれる量でよしとされた。身にまとうものとしては、シカのナメシ革でできた薄手の肌着に防寒用のアナグマの毛皮、それにウサギの毛皮の帽子にヤギの毛皮でできた長靴が用意された。これらに野営に必要な道具として石刃一丁、石斧一丁、火打石一丁がそれぞれ二人に与えられ、更に熱さましと切り傷に聴く薬草が干し肉と一緒にウシの皮袋に収められた。自衛のための武器としては自分が愛用している槍を持って行くことにした。カシの棒の先端を尖らせて火であぶって仕上げた長さ2メートルほどの狩猟用の突槍だった。

    旅の身支度は以上であったが、他に忘れてはならないものが、途中世話になる同族たちへの土産だった。出発地のラマーレスからあの白い山並みの向こうまでは約10日の行程で、その間、同族の居住地9箇所に立ち寄って世話になることが予定されていた。つまり、長老一家としては最低9家族用の土産を用意する必要があったが、今回は各家の長のためにカンタブリアの海で採れた巻貝の首飾りを1個づつ贈ることになった。また、長老の指示により、ムール貝の首飾りが数点、足長の異族の長たちのために用意された。今回の旅の目的はあくまでも探りではあったが、場合によっては表敬の旅にも転じる可能性もあったからである。できれば対立よりも共生。それを一族の誰もが望んでいた。

    ラマーレスの一族ではスーシーの弟が一番槍を担っていたが、甥にあたるマオマオは、叔父のために特別に投槍のための尖頭器1個と石刃を何個か作って持参することにした。
    石器作りについては、カスティージョでは、ドムドムが職長の役割を担っており、材料の調達、管理、製法の伝授などは全てドムドムに任されていた。岩陰の入り口に一番近い窪みにドムドム専用の工房があてられており、石器の材料や道具は全てその工房に収納されていた。

    カスティージョの一族にとって最も身近な石器の材料は、近傍の山ならどこででも採れる礫岩かパス川の川原石であった。また、少し足をのばせばカンタブリアの海に近いパス川の河口やアソン川の河口で極めてきめの細かい良質のフリントを採取することができた。ドムドムはそれらの原石を時あるごとに採取し、自分の工房に保存していた。

    叔父のための尖頭器の材料としてマオマオがドムドムから与えられたのはパス川河口のフリントで、拳ふたつほどでやや丸長の緑色の塊1個だった。マオマオは、その日の午後、他に拳ひとつほどの丸い川原石1個、シカの角先1個、オーロックスの乾いた大腿骨1個を道具として受け取り、岩陰の外の平らな場所に座り込んだ。

    尖頭器を作るのはさほど難しくはなかった。フリントの塊を左手に持ち、その長い方の頂点を右手で握った川原石で打つとその頭の部分がポロリと剥げ落ちる。それから同様にもう片方の頂点を打って頭の部分を剥がせば両端が鋭く平らになった石核ができあがる。マオマオは、その石核を地面に置いた平らな石の上に立て、その頭の縁を次々にシカの角先で打った。すると今度は鋭い刃をもった細長い薄片が打つたびにポロリと剥げ落ち、マオマオの膝元に転がった。マオマオはそのひとつひとつを丹念に点検し、中から最も均整のとれた薄片を選んで左手に乗せ、右手にもったシカの角先で小刻みに刃先を打ち、全体を徐々に尖頭器として整えていった。残った薄片もシカの角先で整形し、石刃や彫器として土産に加えることにした。ここまでできたところでドムドムが様子を見にきた。ドムドムは、マオマオのつくった石器を1個づつ丁寧に点検し、納得のゆかない箇所に自ら手を入れて岩影に戻っていった。マオマオはそれを見て、更に何箇所か手を入れ、用意した鹿革の小袋に1個づつ丁寧に納めた。出発の新月まではあと3日。合流するラマーレスのミロン洞窟までは丸2日はかかるため、マオマオたちの実の旅たちは明日に迫っていた。その晩、カスティージョの岩陰では、二人を送り出すための盛大な宴の席が設けられ、いつまでも炉の火が絶えることはなかった。



    [7] 出発:われらは一体何者なのか?

    翌未明、ドムドムとマオマオは、長老とスーシーと一番槍に見送られ、密かに岩陰を出た。それぞれホラアナグマの灰色の毛皮を身にまとい、食料やら土産やらの詰まった野牛の革袋を肩にかけ、右手に槍を携えていた。頭上には大小色とりどりの星が無数に輝き、随所に残る雪が漆黒の闇の中に蒼白く浮き上がっていた。その雪明かりを頼りに、二人は黙々と山を下った。途中、ドールの群れが執拗に二人の後を追ってきたが、やがて東の空が白みはじめ、 谷間を流れるアソン川の川面がキラキラと輝き始めるころには、その貪欲に光る眼もいつしか消えてなくなっていた。

    カスティ―ジョからミロン洞窟までは丸2日の道程で、山越えの南回りの道と北の海沿いの平地から現在のアソン川を昇る北周りの道があった。

    北周りの道は、まずパス川沿いに4キロほどゆるやかな谷間を下り、途中東に連なる小高い丘を越えてピスエーニャ川沿いの谷に入る。その谷を15キロほど北東に進むとやがて海沿いの道にぶつかる。今でいうメディオ・クデ―ジョである。メディオ・クデ―ジョからは、なだらかな平地をひたすら東に進んでアソン川の河口に出る。めざすミロン洞窟は、そのアソン川の河口から約20キロほど上流に位置しており、今日のラマレス・デ・ビクトリアの盆地に覆いかぶさるように連なるアサ山の急峻な山懐に開口していた。

    南回りの道は、ピスエーニャ川沿いの谷までは北回りと同じで、途中メディオ・クデ―ジョの5キロほど手前で東に折れ、その先の丘陵を横断してミエラ川の上流に出る。ここから川沿いを下るとアリサスの谷にぶつかり、その谷から南の山岳地帯を越えてアソン川の上流に出る。今日のアレドンドのあたりである。そして、このアレドンドからアソン川沿いの深い谷間を東に下ってゆくとやがてその周囲を荒々しい岩山に囲まれた小さな盆地に出る。これがラマレス・デ・ビクトリアで、その西側には槍の穂先のようなサン・ビセンテ山の頂が天を突くかのようにそびえ立ち、東側にはアサ山の山塊が重厚に連なっている。ミロン洞窟はそのアサ山の一画で垂直に切り立つ巨大な岩壁の最下部に開口している。縦横15メートル奥行20メートルほどの広々とした洞窟で、その開口部から岩山に沿ってそのまま南に進み、東西に連なるカンタブリアの山塊を超えればやがては後世におびただしい数の旧人の骨が出土することになるアタプエルカの台地に至る。

    カスティ―ジョからミロン洞窟までは、比較的平坦な北回りをとることが普通であったが、その北回りがペンドゥ洞窟から発する別働隊のルートと重なることもあり、今回、ドムドムとマオマオは、山越えの南周りの道をゆくことに決められていた。

    まだ20歳にも満たないマオマオにとり、日頃から兄貴分として慕うドムドムとの今回の偵察行は、先行きの不安よりももっともっと他の世界のことが知りたい、そして何よりもあの足長の族が何者なのかを知りたいという好奇心が勝っていた。

    あの足長の族たちは、たしかに自分たちの仲間とは体つきが違ってみえた。
    が、マオマオ自身は赤毛の一族の中では比較的背筋がのび、川面に映る自分の顔のつくりにしても、ドムドムに比べればやや細みでのっぺりとして見えた。実際、マオマオはまだ一度しか、それも遠目にしか足長の姿を見たことがなかったが、その時は、内心、他の仲間たちが言うほどには違和感を抱いてはいなかった。
    「彼らははたして本当に自分たちの敵なのだろうか?」
    マオマオはそう密かに自問しながらミロンへと向かっていた。

    メディオ・クデ―ジョの手前を東に折れ、ミエラ川の上流からアリサスの谷に出て南に進み、やがて峠の上り口にさしかかったところで夕暮れ時となった。今日のラ・カバダのあたりであった。ドムドムとマオマオは、左手の灌木の茂る小高い山の中腹に小さな洞穴をみつけ、そこで一夜を明かせればと思った。洞穴の入り口は縦横2メートル、奥行き3メートルほどの手ごろな大きさで、その奥には更に細長い穴が続いていた。ドムドムは、早速、携行してきた火打石で小型の松明に火をともし、その奥の方の穴に注意深くもぐり込んだ。内部は思ったよりも広がりがあり、床のところどころにクマの寝座らしき窪みが見えた。「これはちょっとまずいかな」と思ったドムドムではあったが、どこにも獣の動く気配がないことを確かめ、とりあえずこの洞窟の入り口を一夜借りることにした。二人は、まずは近くの茂みから灌木の木切れをできるだけ多く集め、洞穴の前で火を焚いた。
    あたりはすっかり闇に包まれていた。二人は黙って皮袋からシカの干し肉を取出し、二切れ三切れと口に頬張った。塩がききすぎていて辛かった。二人は、やはりカスティ―ジョからもってきた皮袋の水で喉を潤し、さらに干し肉を4切ればかりつづけざまに口に放り込んだ。二人の気持ちが落ち着きを取り戻したのは、出がけにスーシーから手渡された干しブドウの袋をあけた時であった。その甘い粒々を口一杯に頬張り、赤々と揺れる焚火の炎にしばし時の過ぎるのを忘れた。

    焚き木の一本がパチパチと音をたてて弾けたときだった。
    「ところでドム兄ィ、」
    とマオマオが口を開いた。
    「おいらの一族は、爺やの話によれば、昔々、これから向かおうとしている白き山並みの向こう側からやってきた。しかも、その山並みを越えてこちら側にやってきたのはあの足長の連中に住まいと土地を追われたからだということになっている。でも、足長の連中とわれらの関係はただそれだけのことだったのか。なぜならば、あの山並みの向こうでは、足長の連中とわれらの祖先は相当長い歳月を隣あわせで過ごしてきたのだし、双方の間にはもっと深い絆のようなものがあってもよかったのではないかと思っているんだけど、ドム兄ィはどう思う?」 いきなりの質問にややとまどったドムドムではあったが、マオマオからの予期していた問でもあり、はねた木端を生木で真ん中に手繰り寄せながら、 「これは、以前、ミロンの婆やから聞いた話なのだが」と、あえて落ち着いた口調で言葉を返した。 「ミロンの一族もカスティージョの一族も、昔はあの山並みのはるか向こうに住んでいた。そこへあの足長がやってきたわけだが、最初からお互い敵視していたわけではなかったらしい。むしろ時には狩の道具も交換しあい、宴をともにすることも稀ではなく、女たちとの交わりも法度ではなかったらしい。」 マオマオは黙って聞いていた。 「で、そうした足長との関係が悪くなったのは、あたりが急に寒くなり始めた頃からで、猟場を巡って争うことが多くなった。寒くなれば木の実の収穫も減るし、獲物の数も少なくなってくる。で、お前も聞いて知っているようにやがては我らの一族は足長に押し出されるようにその場を去り、あの白い山並みを越えてこちら側にやってきた。」 「うん、そこまではいつもよく聞く話で自分も知っている。」 「ところがだ。そうして山を越えてこちら側にやってきたわけだが、こちら側ではまた別の族と出会うことになった。つまり、昔からそこに住んでいた先住の一族というわけだ。そして、その一族というのが、躰つきは我らと似てずんぐりとしていたが、顔つきは我らよりかなり厳つくて髪の毛も黒かったらしい。そして、住居ももっぱら洞窟の岩陰に身を寄せるだけの粗末なもので、狩りの道具にしても石をたたいて割っただけのいとも簡素なものだったという」 「ということは、その黒毛の一族にとっては、われらの一族が見慣れない侵入者として映った」 「そういうことだ。が、その先住の一族は、足長の連中に比べればずっとおだやかで友好的だったらしい。これといった摩擦もなく、猟場も広かったためにしばらくは彼らの近くで隣あわせに住むことが許された。

    「しばらくは、ということは、つまり、その後、そこから転々としながら今の地にたどりついた、ということか」 「そういうことになる。で、われらはこれから先そうした黒毛の一族の土地を通ってゆくことになるので、彼らと我らは必ずしも同じではないということを憶えていて欲しいのだ」 それを聞いたマオマオは、「どうも事態はそれほど単純なものではなく、自分たちはひょっとすると足長と黒毛の間にあるのではないか」と心の中で思った。ドムドムは更に黒毛の一族について、「彼らは、昔は、はるか南の台地に住んでおり、そこから今の場所に移ってきたらしい。」と語った。また、赤毛の一族にとって足長の話す言葉は、初めはほとんど聞き取れなかったが、黒毛の一族の話す言葉は、何故か出会った頃から耳になじみ、互いに通じあうまでにはそう長い年月はかからなかったらしい。 「南の台地」といえばこれからゆくミロンの誰かも言っていた。「自分らはもともと南の台地からやってきたものと、後に東からやってきたものとの間の子」と。「では、われらは一体何者なのか?」マオマオの興味は、更に膨らむばかりであった。

    焚火の火は絶えることなく燃え続けていた。
    話が一旦とぎれたところでドムドムは、先に岩陰に入り、枯草の寝床の上に横になった。マオマオはそのままのこって焚火の番を続け、外敵に備えた。頭上は満点の星でマオマオたちの周りは漆黒の闇に閉ざされていた。
    マオマオは、一人、星空を眺めながらしばし一族の過去と未来について思いを巡らせていた。

    と、焚火の炎がやや勢いを失せた時であった。岩陰から50歩ほど離れた灌木の木陰にキラリと光る小さな点が見えた。よく見るとそれは左右二つの丸い点で、しかもその二つが右にも左にも、岩陰にそった木立の中でも幾つか光っていた。明らかにそれは獣の眼だった。「これはまずい」とマオマオは、即、岩陰まで後ずさりし、既に寝入っているドムドムの肩をゆすった。 「どうやらドールの奴らに囲まれてしまったらしい」
    それを聞いたドムドムは、来たかとばかりに即、起き上がり、傍らに立掛けておいた投槍を手にとり、焚火に近寄りながら黙ってマオマオの指差す方を見た。
    「うむ、あれは確かにドールだ。あいつら、我々が山を下りる時からずっと付け狙ってきたのかもしれない」
    二人はとりあえず消えかけていた焚火に焚き木をつけたし、槍をかざしながらドールの接近に備えた。
    「全部で8頭くらいはいるな」とドムドムはつぶやいた。焚火の火が消え、一斉に襲われればひとたまりもないことは分かっていた。
    こういう時に備え、焚き木は十分用意してはいたが、夜明けまでもつかどうかは自信はなかった。
    そうこうしているうちに、ドールの群れが徐々に灌木の陰から草地へと姿を現してきた。近づいてきたのだ。群れは10頭は下らなかった。黒い4つ足の陰がゆっくりとこちらに近づいてくる。マオマオにとってはこれだけのドールに囲まれたのは生まれて初めてで、その恐ろしさに身が震えた。ドムドムは「絶対にオレから離れるなよ」とマオマオに告げた。

    ドールは更に近づき、鋭い牙をむき出しにしたあの獰猛な顔面が次々に焚火の明かりに浮かび上がってきた。そして右端の1頭がやおら二人に向かって突進をはじめ、飛びかかるかと思った瞬間、焚火の前で反転して仲間のもとに退却した。そのドールは二人の反応を試したのだった。「次は一斉攻撃かも知れない」とマオマオは覚悟した。 と、その時だった。灌木の林の中からまた幾つか火の光が見え、こちらに近づいてくるのが見えた。「何だ、あれは」と、眼前のドールに気を配りながら二人はその方向を見た。 今度の光は、しかし、ゆらゆらと揺れていた。明らかにそれは松明だった。
    誰かがこちらにやってきたのだ。しかも松明の明かりに照らされた影は3つ。マオマオがオオツノジカの狩の時に見た人影と同じ、足の長い細身のヒト影だった。 足長の影は、そっと、しかし足早にドールの背後に近づいてきた。そして、三人が一斉に槍を放つとそのうち2本が標的の腹に突き刺さり、2頭のドールがなんとも悲しげな声を発してその場に倒れた。ドールたちは見かけほどには強くはなかった。というよりも以外に気弱で臆病だった。背後から突然得体の知れないものに襲われた残りのドールたちは、倒れた仲間には見向きもせず、散り散りになって逃げ去っていった。 それは、あっという間のできごとであった。

    ドールたちが去ると、そこには3つの影が立っていた。二人からはやや距離があったため、はっきりは見えなかったものの、焚火の炎に照らされた彼らは明らかに足長の男たちだった。細身の躰に薄手の毛皮をまとい、すっくと立ってこちらのようすを覗っていた。肌の色は褐色で髪は黒。赤と白で塗りたくったその顔面が印象的だった。 どうやら足長の男たちには敵意はなさそうであった。そう確信した二人は思わず頭を下げ、感謝の意を表した。足長の男たちもそろって右手をかざしてそれにこたえた。そして、眼で軽く会釈しながら踵をかえし、まだ地べたでもがいているドールの腹から一本一本槍をぬきとるやそのまま闇の中に去っていった。 「一体、何故なんだ」とドムドムとマオマオは思った。が、二人には余りにも予期できぬ出来事であったばかりに声をかける術もなく、ただただ足長の男たちの去るのをじっと見守るばかりであった。

    続く.....。





    深沢武雄(ふかざわ・たけお)
    1968年 電気通信大学電子工学科卒
    1979年 学術出版編集記者を経てマルチメディア開発の株式会社テクネ設立。1991年以降、博物資源のデジタルアーカイブに傾注、1997年12月からスペイン北部の旧石器洞窟美術のデータベース化に着手。

    [主な著作]
    • 「現代の職人」(新人物往来社)
    • 「古代工人史紀行・技術の神々」(田畑書店)
    • 「マヤ神殿とその壁面装飾」クープ篇/ペテン篇/ベリーズ篇(共著・テクネCD-ROM)
    • 「先史人類の洞窟美術・北スペイン篇」(共著・テクネ・PhotoVR Database)
    • 「Paleolithic Arts in Northern Spain」(共著・University of Cantabria)





    Takeo Fukazawa
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