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2011年 |

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投稿者:深沢武雄(S36E/本HP管理者) 投稿日:2011年12月11日
タイトル: 消えたパンフレット(2)
本フォーラム11月17日投稿の「消えたパンフレット」に関し、先週12月8日、コミュニケーションミュージアムから回答があり、第7展示室で同パンフレット「電通大の黎明期」の配布が以下の理由で中止されたことがわかりました。

1)パンフレットの文責が明記されておらず、来館者にコミュニケーションミュージアム公式の文書と混同される可能性があること。
2)パンフレット記載の内容に一部「研究の紹介」と乖離した箇所があり、ミュージアムでの配布が必ずしも適切ではないと判断したこと。

第7展示室としても、同パンフレットは、コミュニケーションミュージアムが新規オープンされる2008年の調布際に急遽間に合わせるため、既存の文書を探し出してとりあえずひとつの冊子としてまとめたもので、全体的に必ずしも統一のとれたものではなく、将来的には更に精査拡充して「研究の歴史」と「大学の歴史」を分離したかたちでまとめてみたいとしている。

ということで、本HPといたしましても、コミュニケーションミュージアムの方針に沿うかたちでHP掲載の「電通大の黎明期」を「第7展示室友の会編」とし、「研究の歴史」と違和感のある最終章を削除することにいたしました。

また、HP自体につきましては、コミュニケーションミュージアムとしてもその重要性はおおいに認めるところであり、今後、逐次、そのあり方について研究してゆきたいとのことですのでここにご報告させていただきます。



投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年11月20日
タイトル: 第7展示室HP開設は見送り
第7展示室のために試作した「コミュニケーションミュージアム第7展示室」のホームページは、左図のようなデザインだった。正式には「UECコミュニケーションミュージアム第7展示室」とすべきなのであろうが、ここでは「電気通信大学」の名称は明記すべきであると思ったので「UEC」については最近新しくできたロゴを元来のリサージュにかえて採用し、結果として「UEC 電気通信大学コミュニケーションミュージアム第7展示室」というタイトルができあがった。

ところがだった。

この第7展示室のホームページを第7展示室としてミュージアムの委員会に提案したところ、最初は好意的に迎えられたが、何故か、一転して不適切として退けられたらしい。伝え聞くところによれば、その理由がどうも大学のロゴを勝手に無許可で使用してサーバーにアップしたためという。

理由はともあれ、委員会によって受け入れられなかった以上、ホームページはまた元の「友の会」運営による「黎明・第7展示室への招待」に戻して現在に至っている。

が、それにしても「第7展示室のホームページ」の提案が認められなかった理由が「ロゴの無断使用」にあったというのは不可解としか言いようがない。「第7展示室のホームページ」はUECコミュニケーションミュージアムの一員として試作して提案されたのであって、仮にそこでロゴの使用に問題があったとしても、それは単にロゴを改めるとか、ロゴの使用について大学の管理者に問い合わせるとかすれば済むことであって、ロゴそのものだけでホームページの適正を判断するのは無理がある。提案したホームページに関し、委員会の先生方の間でおそらくなにか誤解があったのだろう。歴史資料館の時から「今後は収蔵資料の電子的公開にも力を入れて行きたいと思います。」という指針が示されていることでもあるし、「電子的公開」は電気通信大学として最もふさわしい活動でもあるし、近い将来、コミュニケーションミュージアムのホームページ運営についてもう一度前向きに検討していただきたいと思う。ちなみに、この一件があって以来、「UECコミュニケーションミュージアム」のホームページの著作権者が「個人」から「University of Electro-Communications」に変更されている。

[ 画像:試作提案中のホームページ「「UEC 電気通信大学コミュニケーションミュージアム第7展示室」のインデックスページ ]


投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年11月19日
タイトル: 第7展示室HP開設
国立大学も法人化されて以来、その台所はどこも火の車のようであるが電気通信大学も例外ではなく、近年、特に状況は厳しいらしい。従って、新装オープンしたミュージアムに予算がつかないのはわからないわけでもない。が、それにしても年間の運営予算が一展示室あたり数万円というのはいかにも寂しすぎる。大学の施設としてミュージアムを立ち上げた以上、もう少しなんとかならないものかと思う。

といって、予算がないから活動もできないとも言っていられない。お金が無いなら無いなりにできることはないか。ということで第7展示室友の会がこの5月に立ち上げたのが現在の「黎明・第7展示室への招待」という外部から第7展示室を支援するホームページだった。「今後は収蔵資料の電子的公開にも力を入れて行きたいと思います。」という歴史資料館時代の目標にもかなうことだし、特に黎明期の場合は、展示できるようなモノがそれほど多くはない。従って、今後、コンテンツを蒐集したり公開するにはWWWが最もふさわしい媒体と思ったからである。実現にあたっては予算がゼロなので、サーバーはとりあえず私の会社が運営するmuse.or.jpとtexnai.co.jpのスペースを間借りすることとし、コンテンツは現時点の展示内容を電子化して私が編集することにした。

http://www.muse.or.jp/uec_muse7/

もっともホームページといえば、コミュニケーションミュージアム自体にもあるにはあったし、現在も公開されている。

http://www.museum.uec.ac.jp/

が、聞くところによれば、コミュニケーションミュージアムのホームページの場合、各展示室に割り当てられる容量が極めて少なく、とても第7展示室のニーズを満たすものではなかったらしい。また、その著作権者の表示が個人になっていることからして、実際に運営しているのは、コミュニケーションミュージアム自体ではなく同じくボランテアの方がひとりで制作されているらしかった。とすれば、ミュージアム全体をひとりで詳しく紹介するのはほとんど不可能であるし、ならば既存のホームページにはコミュニケーションミュージアムのポータルサイトとしての役目を担ってもらい、その下に各展示室独自のホームページが一定のルールの基で開設されているのが望ましいと思った。

そこで提案したのが、「黎明・第7展示室への招待」を「コミュニケーションミュージアム 第7展示室」と改称し、運営を友の会から第7展示室に移管することだった。その方が形としては自然だと思ったからである。

ところがだった。続く...

[ 画像:ホームページ「黎明・第7展示室への招待」のインデックスページ ]



投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年11月17日
タイトル: 消えたパンフレット
第7展示室の目玉に「電通大の黎明期」と題したパンフレットがある。中川先生他数人の先生方が執筆した原稿を旧歴史資料館友の会が編集して発行した小冊子で、2008年11月の新ミュージアムオープン以来、第7展示室の入り口で来館者が自由にお持ち帰りができるように平づみにされていた。

ところが、そのパンフレットが、今年の5月の中頃だったろうか、何故か第7展示室から消えていた。ひょっとすると品切れになったのかと思っていたが、伝え聞くところによれば、消えた理由は、どうもそのパンフレットがコミュニケーションミュージアムには不適切とされたためらしい。

そこで「電通大の黎明期」を改めて読み直してみると、そこにはNMR分光やESR分光など1950年代から70年代初頭の日本でも先駆的な研究の背景やいきさつなどが生き生きと書かれており、また研究だけではなくて1965年に学内で提起された軍事研究問題に関しては「電気通信大学教官は軍事研究をしない」という申し合わせを教授会が全員一致で採択したという事実など、電気通信大学の歴史を知るうえで極めて貴重なエピソードが満載されている。

で、消えた理由が「不適切だから」とすれば、こうした内容のどこが「不適切」なのか?

「電通大の黎明期」は、第7展示室の中核をなす資料なだけに、その理由を明確にし、その理由によっては、直ちに元の場所に復帰させていただきたいものである。

[写真:第7展示室入り口につまれたパンフレット「電通大の黎明期」。2008年11月撮影]


投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年11月14日
タイトル: 第7展示室「電通大黎明期」の展示・公開(2)
大学というのはオモシロイところで期せずして大金が飛び込んでくることがある。
第7展示室の場合、実は、2008年、コミュニケーションミュージアムが新装オープンする前に最新の3DHD映像シアターを含む展示室の改装計画書を大学に提出していた。そこにマッチングしたのが、1年後についた「学術資源の保存・公開」等に対する文科省の特別予算だった。そこで1年前の計画書を思い出した事務方としては早速第7展示室の中川先生に連絡し、その改装計画をそのまま実施していただきたいということになったらしい。

そんなわけで、今、第7展示室を訪ねると1年前とは大分違うことに気づく。コンクリートむき出しの壁にはピカピカの新建材のパネルがはられ、頭上には気のきいた照明ランプが灯り、奥まった一角が裸眼の3Dプロジェクターと120インチスクリーン、音響装置、コンピュータシステムからなる最新式の2D/3D映像シアターに改装されている。もちろん空調設備も完備し、1年を通して快適にすごせる展示室に生まれ変わっている。

が、展示室はそこそこに改善されたものの、コンテンツ拡充に必要な予算はゼロ。運営費も極くわずかでしかない状況には今も全く変わりはない。3DHD映像シアターについても、当初は第7展示室だけではなく、講演会やセミナーなどのためにもミュージアム全体の共同利用が期待されていたが、実際は部屋の片隅で埃をかぶっているのが実情のようである。第7展示室に限らず、今後、電通大のミュージアムをどうしたら活性化できるか。それにはOB諸氏の協力が絶対に不可欠であることは間違いない。ぜひご意見、ご協力を呼びかけたい。

[写真:インストールされたばかりの3DHD映像シアター。2010年3月撮影]



投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年11月13日
タイトル: 第7展示室「電通大黎明期」の展示・公開(1)
「電通大黎明期」の部屋は、その後「UECコミュニケーションミュージアム第7展示室」となったが、問題はその展示、運営にかかわる人材と予算だった。結論的にいうと、当面、人材は中川先生ひとり。予算はゼロという状況だった。船舶通信士労働組合から寄付されたとされる2億円なにがしかの資金も、どういうわけか既に底をついているということであった。

それでも11月の調布祭までにはなんとか展示を形にする必要があった。
そこで予算がないのだからとりあえず歴史資料館から運んできた「NMRの磁石」「超伝導MNRの模型」「電波時計」「ESRの磁石と測定器」を適当にレイアウトし、これにポスターと「電通大の黎明期」と題したパンフレットを添えることにした。

ポスターやPOPは、中川先生が書いた原稿を私が編集・レイアウトし、これを学内の情報基盤センターの大型インクジェットプリンターで印刷した。A全のポスターが全て無料で印刷できたのは大助かりだった。

人手も道具もないので展示品の移動や設置は中川先生とボランテアで集まったIさん、Tさん、Sさん、それに私の5人で行なった。平均年齢76.5歳という危なっかしい力の結集だった。そのために300キロ以上はあろうかと思われる超伝導MNRの模型がズルズルと移動させる際に横転し、全員危うく怪我をするはめになった。

他に、パンフレットの印刷やポスターのハレパネなど若干費用がかかったが、これらの費用は中川先生が個人的に賄い、なんとか調布祭での新装オープンに間に合わせることができた。

準備を終えたボランテアの面々は、中川先生を伴い、約40年振りに深大寺までの裏道を歩いてみた。当時、電通大から深大寺まではほとんど田んぼであったが、今はその大半が宅地となり、深大寺手前の修道院だけが昔日の面影をとどめていた。続く....。

[写真:展示準備中のNMR磁石(左)と超伝導MNRの模型(右)。2008年11月筆者撮影)]








投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年11月13日
タイトル: 電通大歴史資料館からコミュニケーション・ミュージアムへ (2)
電気通信大学黎明期の展示を考えるにあたり幾つか確認しておきたいことがあった。
第一はこのミュージアムの使命というか目的であって、1998年に開設された前身の「電気通信大学歴史資料館」の尾関和彦館長は、同資料館の目的について「電気通信大学の教育・研究分野に関係する技術の歴史を、分かりやすく系統立てて展示することを目標にしています。また、その中で電気通信大学が果たした役割を示して行きたいと考えています。所蔵資料を研究者に利用して頂きたいことはもちろんですが、広く学生や一般社会人にも理解して頂けるような分かりやすい展示を心掛けています。また。今後は収蔵資料の電子的公開にも力を入れて行きたいと思います。」と同資料館のホームページで述べている。

http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/261763/www.museum.uec.ac.jp/index.html

現在のコミュニケーション・ミュージアムは、船舶通信士労働組合からの寄付もあってその1年後に移転・改称される形で新装オープンするわけであるが、名称変更についてもコンセプトについても当初は必ずしも明確なものではなかったらしい。そのために黎明期の展示については、とりあえず歴史資料館のコンセプトを引き継ぎ、名称についてはコミュニケーション・ミュージアムの中の「歴史資料館」といった位置づけで検討することになった。ちなみにその後、コミュニケーション・ミュージアムについては、新任の湯川敬弘館長も「奇しくも、創立90周年にあたる2008年に新しい建物に移ることになり、名称もUECコミュニケーションミュージアムと改め、人と人、機械と機械、人と機械とのコミュニケーションを使命とする電気通信大学の博物館として、その果たしてきた役割を伝える場所として生まれ変わりました。展示もさらに分かりやすく、広く学生や一般社会人の方々にも理解して頂けるように一新いたしました。」と、基本的に歴史資料館」のコンセプトを継承することを表明している。

http://www.museum.uec.ac.jp/

ということで、本ミュージアムの目的としては「本学の教育・研究資料の保存、展示、公開し、広く学生や一般社会人の理解に資すること」ということで確認できた。ただし、「UECコミュニケーションミュージアム」という名称については、外来語を使ったためにやたらに長くなって何につけても表記しにくいこと、「コミュニケーション」という名称によって将来の保存展示の巾が狭められることにならないかなどの点で若干違和感を感じざるをえなかった。続く....。




投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年11月03日
タイトル: 電通大歴史資料館からコミュニケーション・ミュージアムへ
久しぶりに話を電通大コミュニケーション・ミュージアムの件に戻そうと思う。
3年前の夏の終わり、恩師中川直哉先生に呼ばれて集まったのは私を含め、2年先輩のIさん、Tさん、Sさんの4人だった。電通大黎明期の展示をなんとか手伝って欲しいというのが先生の思いだったと思うが、まずは新装オープンに向けて準備が整いつつあるミュージアム全体を見せていただくことにした。

ミュージアムには東10号館の1階と2階の2フロアがあてがわれていた。眼についたのはやはり通信機器で、昔D棟の廊下で見たような戦前の無線通信機をはじめ、在りし日のオーディオ機器や送受信機などが所狭しと各部屋に詰めこまれていた。中でも眼についたのは真空管の膨大なコレクションで、マニアにとっては垂涎の的となるような歴史的な逸品が既に整然と陳列ケースの中に収まっていた。聞くところによればある蒐集家のコレクションをそっくり電通大のミュージアムで引き継いだのだという。

まだ何も詰まっていない部屋があったので、こんな部屋を活用して年に1回か2回、企画展示をしたらミュージアムを活性化できるのではないか、また、船舶通信士労働組合の寄付でこれだけのミュージアムができたわけであるから、例えば漁船か貨物船の無線通信室をそっくり再現し、トンツーも試してみられるような部屋があってもいいのではないかと歩きながら思った。

最後に1階西奥の「黎明期」の部屋を見せていただいたが、このスペースはこれまで倉庫として使われていた場所だそうで、打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた狭い空間に核磁気共鳴用の磁石やESRの測定装置やらが雑然と置かれていた。これからこのスペースをどう料理するかが中川先生の課題であり、私たちの課題でもあった。入り口に掲げられていた「歴史資料館」という手書きの看板が印象的だった。続く....。

写真:「UECコミュニケーション・ミュージアム」1階西奥「黎明期」の部屋で作業中の中川直哉先生(2008年11月撮影)


投稿者:深沢武雄(S36E) 投稿日:2011年09月04日
タイトル: ユーラシア大陸最大の鹿石群
国立民族学博物館からの頼まれ仕事で、この8月、久しぶりにモンゴルを旅してきた。目的はエルデニゾーというモンゴル最古の僧院とその周辺の遊牧世界を3Dならびに高精細パノラマ撮影することであったが、その中で最も圧巻だったのはアルハンガイ県中部で立ち寄ったユーラシア大陸でも最大といわれる鹿石群だった。鹿石は、青銅器時代の墓標のようなもので板状または棒状の石柱の表面に「鹿」をモチーフにしたレリーフが彫られているところからその名で呼ばれるようになった。その目的や意味などについては、学者の間でもまだはっきりしたことがわかっていないようであるが、私にとってはその洗練されたデザインと広大な草原の真っ只中にポツネンとたたずむ孤高のたたずまいが好きで、モンゴルを訪ねる際には必ず鹿石の見られる場所を探して立ち寄ることにしていた。

今回の鹿石群で興味深かったのはその配置だった。この鹿石群の近傍にはいわゆるストーンサークルが点在しており、中にはその中心に高さ6メートルほどの石積みのマウンドを擁する直径200メートルはあろうかと思われる巨大なものもあった。しかも、よく見るとそのストーンサークルの周辺には更に小さなストーンサークルがフラクタル状に幾重にも配置されており、その一角に鹿石が配置されているケースもあった。今度は是非空から見てみたいものだと思った。

もうひとつ今回の鹿石群で驚いたのはその保存の良さだった。普通、鹿石は野ざらしにされているために、せっかくの鹿のレリーフも摩滅して表面には何ものこっていない場合が多い。ところがこの遺跡では全部で24本認められた鹿石の大半がほぼ完全にレリーフを遺していた。関係者の説明によれば、ここの鹿石群はもともと長年草原に放置されており、その大半が横倒しになっていたり、地中に埋まっていたりといった状態だった。それが、最近、モンゴルの文化財保存協会とアメリカ合衆国の支援によって整備され、主な鹿石は全て垂直にたてなおされたのだということであった。それにしても中には、まだ彫りの深いみずみずしいばかりのレリーフを多数見つけることができた。今後の保存についてモンゴル政府がどう対応しようとしているかは知らないが、これらをそのまま放置しておけば確実に風化が進み、何年か後にはおそらく石の表面は摩耗して鹿のレリーフも完全に消滅してしまうだろう。

石像やレリーフの保存方法として3次元計測によるデジタル・アーカイブがある。つまり、高精度の3次元スキャナーでデジタイズしておけば、少なくともその形状は正確に復元できる。ここで思うのであるが、こうしたデジタル・アーカイブなどは電通大のミュージアムなどにとっては最も相応しい研究課題であり、国際貢献のテーマでもある。願わくば電通大のミュージアムも近い将来、こうした分野でも活動可能な研究博物館に成長していただければと思う。

ところで、モンゴルの草原では野宿するか遊牧民の民家(ゲル)に泊めてもらうか、ゲルを一カ所に並べたようなツーリストキャンプに泊まることになる。そのツーリストキャンプで、今回は不覚にも深夜番犬に吠えられ、逃げようとして転んで鎖骨を折ってしまった。全治3〜4ヶ月。ここのところ毎朝整形外科のクリニックに通っている。[写真:保存状態が最も素晴らしかった鹿石。8月13日、深沢撮影]


投稿者:深沢武雄(目黒会会員) 投稿日:2011年08月07日
タイトル: 沖縄戦を越えて(4)
「で、Tさんの場合は、やがて那覇高から電通大に留学してくるわけですが、オヤジさんの方はどうなったのですか?」
「それが、今から20年前に突然国から知らせがあり、那覇の病院で今も生きているということがわかった。びっくりした、わたしは、もちろん、会いに行った。が、オヤジの容態は昔のままで、わたしたちのことは全く認知できない様子だった。そして、暫くすると今度は国からわたし宛に500万円が送られてきた。つまり、オヤジが那覇の病院で亡くなり、事故以来の給金や補償金やらがたまってそれだけの額になったのだという。本来は母親の元に遺されたお金なのだが、母親は、戦後、再婚していたために相続人の資格を喪失していた。従って、わたしが自動的に相続人に指定されたのだったが、もちろん、そのお金はそっくり那覇にいる母親に受け取ってもらった。音信不通になっていた前夫が遺した45年間分の遺産だった。」
電通大ゆかりの船舶通信士労働組合の話から随分脱線してしまった。が、なんとなく心に響く一先輩の昔話だったので本人の承諾を得て書き記すことにした。


投稿者:深沢武雄(目黒会会員) 投稿日:2011年08月07日
タイトル: 沖縄戦を越えて(3)
「沖縄戦についての詳しいことは、その後、物心がついてから徐々に知ることになるんですが、考えてみると國というのは勝った方も負けた方もひどいことをやるもんだとつくづく思いますね。それにしても米軍にとって沖縄戦はどういう意味をもっていたのでしょうね。当時は既にサイパンもグアムも硫黄島も落としていたし、本土侵攻には放っておいてもよかったのにと思いますがね、あんな小さな島に50万もの兵力をつぎこんで1万以上も戦死させてね。一方、日本人の戦没者はその3ケ月間で軍民あわせて20万とも24万人ともいわれている。本土決戦のための時間稼ぎとも捨て石ともいわれているが、あげくの果てに原爆を2つも落とされて敗戦。その戦争責任も結局はあいまいにされたまま今日に至っているわけですからね。捨て石になった人たちは浮かばれない。本当に....。」 続く.....。


投稿者:深沢武雄(目黒会会員) 投稿日:2011年08月07日
タイトル: 沖縄戦を越えて(2)
ではTさんは何時沖縄に戻ったのか? 続けて曰く。
「今にして思えば、あの頃はもう台湾もいよいよ危ないと母親も予感したためだったのでしょう、何時だったか正確にはわからないが、ある日の夜、小さな漁船に乗せられて海を渡ったことを覚えている。」
「沖縄本島に向かってですか?」
「いや、わたしは実は宮古島の出身でしてね、オヤジもその頃なにやら貨物船の船底で積み荷の下敷きになって脳をやられ、それ以来音信不通になっていたし、一家はとにかく生まれ故郷に戻る他なかったわけでしょう。」
「ということは、Tさんたちは、米軍が沖縄戦を開始する昭和20年3月前後に宮古島に渡ったことになるかと思いますが、その頃、宮古島はどんな様子だったんですか?」
「いや、何もない静かな島でした。宮古島には日本軍もいなかったですからね。戦争が終わって米軍が進駐してくるまでは、島では銃声ひとつ聞いたことがなかった。」
「そうですか、本島ではあれほどの激戦が3ケ月間も続いたのに、周辺の島々は結構平穏だったのですね。中には米兵がやってくるまで、皆、日本は勝っていたと思っていた島もあったといいますからね。」
「そう、平穏ではあっても宮古島では母親には何も生きるすべがなかったんでしょう。そこで、戦後、一家は間もなく沖縄本島に渡るわけです。で、初めて見た那覇の街は、それこそ荒廃のただ中。雨でも降ろうものなら街中が泥まみれで、バスも容易に坂道を登れなかったことを覚えている。」続く....。


投稿者:深沢武雄(目黒会会員) 投稿日:2011年08月05日
タイトル: 沖縄戦を越えて(1)
船舶通信士労働組合といえば、最近、沖縄那覇校出身の2年先輩のS.Tからこんな話を聞いた。電通大の歴史ともあながち無縁とは言えないし、昔はこんなこともあったということを皆にも知って欲しいのでここに一文書きとめておきたいと思う。
S.Tは昭和34年入学で学科は陸上通信。当時、沖縄はまだ米国の統治下にあったのでS.Tはパスポートを携行した留学生だった。留学生試験に受かった時、本人は文系志望だったが、理系であれば学費がタダという理由で電通大を選んだのだという。
久しぶりにS.Tと会ったのは電通大のミュージアムのために我々に何ができるかを話しあうためであったが、たまたま沖縄戦の記録映像をYoutubeで見たばかりだったので「ところでTさんは沖縄戦が始まった頃5歳か6歳だった筈ですが、どこでどのようにしてあの戦火を生き抜いたのですか?」と訊いてみた。と、本人曰く。

「いや、ウチの家族はあの頃、台湾の基隆(キールン)に住んでいたので沖縄戦のことは全く知らなかった。ただ、戦争といえば一度だけ母親に連れられて台北まで汽車で買い出しに行った時には何度も米軍機の機銃掃射を浴び、その度に列車から降ろされて線路下の草むらに隠れたことは覚えている。オヤジは船乗りだったが当時はすでに軍に徴用されて貨物船か何かで働かされていたらしい。母親の方は、基隆港で何やら貨物船の無線通信士のまかないみたいな仕事をして一家を支えていたらしいのだが、その無線通信士を世に送り出していたあの無線講習所が電通大の前身だと知ったのはわたしが電通大に入学してからで、その時は本当に驚いた。これも何かの縁なのかと思った」続く......。



投稿者:深沢武雄(目黒会会員) 投稿日:2011年07月26日
タイトル: 電気通信大学歴史資料館リニューアルオープン(2)
大学博物館ということであれば私も1995年から96年にかけ、東京大学の総合研究資料館が現在の総合研究博物館に昇格する際に博物資源情報化という立場で立ち会っており、以降、博物館展示に関してもあちこちで多少の経験を積ませていただいてきた。従って中川先生から声をかけられた時には、私の場合、電通大にはそれまで何もしてこれなかったことでもあるし、博物館展示のことであれば、この際、できるだけの協力はさせていただきたい、という気持ちで10数年ぶりに調布のキャンパスを訪ね、中川先生との打ち合わせに参加させていただいたわけである。

1998年に開設された歴史資料館は、東地区大学会館裏の空き地に建てられていたそうであるが、私が訪ねた時には既に東10号館という昔のE棟の奥の研究棟に移転していた。研究棟の入り口に看板が備えてあったが何故か名称が「歴史資料館」から「UECコミュニケーション・ミュージアム」というハイカラな名に変わりつつあるようだった。玄関を入るとロビーの右手にインマルサット船舶地球局アンテナを中心とした1980年代の衛星・電波航法装置一式が新装ミュージアムの象徴としてかなり見栄えよく展示されていた。ただひとつだけ、大スポンサーになっていただいた「船舶通信士労働組合」への謝辞がどこにも見当たらなかったのが残念だった。おそらく私の眼につかなかっただけかと思われるが、今度訪問した時にはもう一度注意して探してみようと思う。続く....。

写真:「UECコミュニケーション・ミュージアム」玄関ロビーに展示された1980年代の衛星・電波航法装置(2008年11月撮影)


投稿者:深沢武雄(目黒会会員) 投稿日:2011年07月24日
タイトル: 電気通信大学歴史資料館リニューアルオープン(1)
2008年の夏の終わり頃だったと思う。電通大の恩師中川直哉先生から電話をいただき、「1998年に開設された大学の歴史資料館をリニューアルし、博物館として新装オープンすることになった。ついては大学の黎明期、1950年代から70年代初頭の歴史や研究の足跡を展示したいので手伝って欲しい」といわれる。そう聞いた私は、我が電通大にもいよいよ「大学博物館」ができることになったのか。それにしてもこの不景気の最中、あの文科省がよくも予算をつけてくれたものよと俄には信じられない心地だった。

ところがよく調べてみると資金源は文科省ではなくて船舶通信士労働組合であった。1918年、電通大の前身である無線電信講習所に於いて民間の無線通信士養成が始められ、以来、1世紀近くの長きにわたって無線通信士を世に輩出し続けてきた。ところが1999年、従来のモールス信号に代わって新たな海上遭難安全システムGMDSS(註1)が施行され、衛星利用のディジタル通信が実施された。これに伴って従来の無線通信士の使命も終わり、電通大とは昔から縁のあった船舶通信士労働組合も解散することになったわけであるが、その際遺された資産の大半約2億円が電通大歴史資料館拡充のために目黒会に寄付されたということであった(註2)。続く...

註1:Global Maritime Distress and Safety System (GMDSS)
註2:「結論として、現在国内で唯一無線電信とその従事者の歴史的資料を蒐集展示している電通大の歴史資料館に、処分した資産の大半である2億円余を寄付して末永く無線通信の歴史を残して頂こうということに決まりました」目黒会報17-2, 小田原敏介(S19. 9一高一期)

写真:新装オープン準備中の歴史資料館第7展示室入り口(2008年11月撮影)


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電気通信大学コミュニケーション・ミュージアム第7展示室友の会
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