(マヤの遺跡を訪ねて:10月2日(月))


 7時に起きて荷造りをしていたら、ここについた日に会った男の子が来て、国境までの車と運転手を雇うことを薦めてきた。話し合いの結果、午前中は昨日行きそびれたSepatrasという遺跡まで連れていってもらうことにして、お昼過ぎにChiquimulaまで連れていってもらうことにした。

 遺跡に向かう途中朝食をとり(といってもオレンジジュースとパンケーキだけだが)、Sepatrasではまた父親が写真を撮っている間、連れていってくれた男の子達やそこにいたガイドのおじさんと話をして待っていた。その遺跡にはアメリカ人の男女も来ていて、はじめガイドのおじさんは彼らに遺跡の説明をしていた。 そのあと私のところに来たのだが、彼はアメリカ人があまり好きではないと言っていた。理由はタバコをたくさん吸うし、時にマリファナなどをやるからだということだ。ここに住んでいる人たちはアメリカ人にたいしてあまり良い印象をもっていないようだった。彼らはタバコを吸うことはmalo(悪い)ことだと強調していた。実際は私の父親もかなりのヘビースモーカーだったので、肩身が狭かった。

 Sepatrasの写真を撮り終えると、また遺跡公園に行くと言うので、私は町に戻って買い物をすることにした。男の子達がいろいろ案内をするといって、町のまわりを車で回ってくれたが、私は一人で歩きたかったので、途中でことわって車をおろしてもらった。日本の友達に書いた絵はがきを出すために郵便局に行ったら休みだったので、Hotel Marina Copanに行って、葉書を預かってもらった。お腹がすいたのでヨーグルトとチョコレートを買って、広場で食べた。それからアートギャラリーのような店でハンドメイドのキーホルダーを買い、ホテルに戻った。ホテルは朝チェックアウトをしてしまったので、部屋には入れず、オーナーの部屋に荷物が置いてあった。トイレを借りて、父親が戻ってくるのをしばらくまった。しかし約束の時間の12時半になっても戻ってこなかったのでしかたなく遺跡公園に向かって歩いた。公園への道は一本なので行き違いになるということはない。公園についたらちょうどでてきたところで、公園のCafeteriaでハンバーガーを食べた。

 もう一度男の子達とChiquimulaまでの値段の交渉をして、結局$150で決まった。El Floridまで彼らのボロボロの車の中に3人が乗ったので真ん中に座った私はお尻が痛いし、変な姿勢をしなければならなくて疲れた。こっちの車のオンボロぐあいは並大抵ではない。外見はもちろん汚いが、それだけではなく、車内に入ると豆電球の実験の時に見たような配線のようなものが足元のところにみえているのだ。エンジンもものすごい音をたてる。シートはクッションが効かないため、お尻が痛くなる。日本だったら、そのような車は車検で引っかかってすぐに廃車である。そのような車で国境まで行き、そこで彼らのamigoに運転手がかわって、車も少しましなものにかわった。(3日間ここにいて思ったのだが、彼らにとってここに住む人たちはみんなamigo(友達)なのだろう。)

 国境までは私たちを抜かして3人の男の子が車に乗っていた。一人は運転手。一人は最初の日に会った男の子。もう一人は彼らのamigoらしい。国境で運転手がかわったので、4人に増えた。そしてさらに彼らのamigoという男の子がいつのまにかうしろに乗っていた。このように、同行者がどんどん増えていった。Copanの人々の収入源はおそらく遺跡を見に来る観光客がメインだから、このように観光客に近づいて来たがるのは仕方がないことかと思うが、このようにamigoのamigoといったようにどんどん連れが増えていくのには参った。途中休憩しようと飲物を買うときは、もちろん全員分のものを買わなければならない。意味もなくついてくる子供たちはきっとこういうのを期待して着いてくるのだろう。しかも、cokeでいいかと聞くと、galloがいいと言う。galloとはグアテマラのビールである。私たちは参ったと思いながら、彼らにビールをごちそうして、Chiquimulaに向かった。

 Chiquimulaには4時頃ついた。そこで彼らにお礼を言って別れ、Rio Hondo行きのバスに乗った。Rio Hondoには15分くらいで着き、料金はQ3だった。バス停は国道沿いにあって、降りてすぐに 行きのバスが来た。それに乗ってQuiriguaに向かった。バスは混んでいて、私たちは初め立っていた。途中、休憩所によって軽く食事をとった。揚げたタコスのようなものだったが、揚げない方がおいしいのではないかと思った。国道は今までの山道と違って、きちんと整備されていたので、バスの走りもスムーズだった。Quiriguaのバス停には6時45分に着いた。料金はQ20だった。

 Quiriguaは小さな村でホテルは1件しかないので選択の余地はなかった。バス停前の売店でホテルの場所を聞いて、ホテルまで歩いて行った。あたりはもう真っ暗で私は持っていたミニライトを出して足元を照らした。ここには街頭が少なかったので、目が慣れないと危なかった。ホテルの名前はHotel Royalといい、いかにも豪華なホテルのようだが、実際は家族がやっている小さなホテルだった。私たちが止まった部屋は一泊Q40で、広かったが、シャワーはお湯がでなかった。ホテルはレストランもやっていたので、夕飯をそこで食べることにした。メニューはなく、チキンがあるというので、よくわからないがそれを頼み、待っていた。待っている途中停電になり、ランプを持ってきてくれた。ここではよく停電になるらしくて、みんなふだん通りにふるまっていた。1時間くらい待った後ようやく食事が運ばれた。

 食事の後に、ホテルの外のベンチのところに行き、そこで話していたお年寄りと、中年の男性に加わった。ふたりとも片言だが英語を話すことができたので、まったく会話が成り立たないということはなかった。また、そこにはホテルで飼っている黒くて小さい犬がいて、最初は私たちを警戒していたが、すぐに慣れて近づいてきた。旅行中たくさんの犬を見たが、このようないかにもペットといったかわいらしい犬を見たのは初めてだった。電灯の明かりのない外は真っ暗で、その日は曇っていたのか星もあまり見えなかった。しかしホテルの向かいにある草むらをじっと見ているとチカチカ光るものが見えた。蛍だった。日本で私が最後にみたのはおそらく私が幼稚園の頃だ。昔は少し田舎に行けば蛍がたくさんいたのに、今は日本ではあまり見ることができない。目を見張れば見張るほど、蛍の数は増えてくる。明かりが少なくて不便だと思ったが、このようなかわいらしい明かりを見ることができたので、Quiriguaの村にきて良かったと思った。

 私はかなり疲れていて、さらにこの頃から喉が痛くなってきていたので話の途中で部屋に戻った。部屋にかえると、また停電になった。私は手探りでまずライターを見つけ、火をつけてミニライトを探した。部屋の中に蛍がたくさんいてくれたらきっと明るいだろうにと思った。


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Written by Yuki Fukazawa
s92385yf@sfc.keio.ac.jp
Last revised on Dec 19, 1995