(マヤの遺跡を訪ねて:September 30,Sat)


 約5時間のフライトの後、早朝にグアテマラシティーに着いた。朝早いからか、空港は閑散としていた。そこは近代的な空港のイメージとはかけ離れ、薄暗く、まるで田舎の駅のようだった。イミグレーションや荷物チェックはあっという間に済み、そのとき私はトイレに行きたかったので、空港の人に英語でトイレの場所を尋ねた。もちろん、グアテマラの公用語がスペイン語だということは承知していたが、空港内くらいは簡単な英語が通じるだろうと思っていた。しかし、その考えは甘かった。ToiletやBathroom、restroomなどの単語を並べても通じなく、父親が下手なジェスチャーをしてもやはり駄目で、あげくの果てに3カ月間だけ大学で習ったスペイン語の知識を呼び起こして、"Un momento"(ちょっとまってて)といい、「スペイン語会話100場面」という本を取り出し、トイレという単語を調べた。そこにはaseoやservicioなどいくつかの単語が載っていたが、その中のservicioでやっと通じた。

 トイレの場所を聞くという簡単なことでいきなり大変な思いをした私は、英語が話せればどの国でも通用するという考えが吹き飛んだ。ここではスペイン語が話せないことは論外なことのようだ。日本人が英語話せない以上にグアテマラの人々は英語の知識がなかったのだ。空港に着くなり言葉の壁にぶつかってしまい、その時もっとスペイン語を勉強してくるべきだったという後悔と、この先どうなるなるのだろうという不安が、ふと私の頭の中をよぎった。

 空港から出ると、タクシーの運転手達がいっせいに私たちの方に集まってきて、自分の車に誘う。とにかく私たちはChiquimula行きのバス停まで行きたかったので、彼らのうちの一人の車に乗り込み、バス停に向かった。料金は父親が乗る前に交渉して、US$10だった。ここの物価にしては高すぎるのではないかと思ったが、グアテマラではタクシーは日本と同じくらい高いらしい。

 バス停に着くと、またバスやタクシーの勧誘の人達が集まってきた。いろいろな人が同時に大声で、しかもスペイン語で話しかけてきたので、私たちは少し戸惑ったが、その中の一人にChiquimula行きのバスまでつれていってもらった。その男性は私たちの荷物を運んで、バスのトランクに入れてくれた。もちろんチップが目当てだったことは承知していたので、適当な額を渡してお礼を言って別れた。このようにあわただしくバスに乗り込んで、バスが発車するのを待った。旅行者は私たちの他にはいなかったので、まわりの人たちは私たちを珍しそうにじろじろ見ていた。バスの中に何度もオレンジや飲物を売る子供や中年の女の人が乗り込んできたが、私はお金を持っていなかったのでそのときは買うことができなかった。父親は外でタバコを吸っていた。しばらくして父親が水とお菓子を持って戻ってきた。父親もUSドルしか持っていなかったが、それでも通用するらしい。$1は約Q5(Quetzal)というレートだった。ChiquimulaまではQ15で、さっきのタクシーとはうって違って安かった。日本では考えられない安さだ。

 6時5分にバスが出発した。その時気づいたのだが、グアテマラシティーは熱帯の地でありながらかなり涼しく、長袖を2枚きていてちょうどよいくらいの気候だった。グアテマラは海抜0から標高3000メートルの地まで幅広く、グアテマラシティーは標高1500メートルくらいのところにあるので日本で言えばちょうど軽井沢などの避暑地の気候にあたるらしい。そのためバスの窓から見える景色は熱帯というより日本の景色に似ていた。しかし、Chiquimulaに近づくにつれて標高が下がってくるのでだんだんと所々に日本ではあまり見られない植物が見られるようになった。まず目についたのは大きなサボテンである。それからさらに下ると、ココナッツの木など、熱帯特有の植物も見られるようになった。それでもまだ、Gジャンを脱ぐほど暑くはなかった。

 Chiquimulaには9時半に着き、そこでもタクシーの勧誘攻めにあった。私たちはそこからEl FloridoというHondurasとの国境の町に行きたかったので、そこへ直通のバスを探していた。それでも一応タクシーだったら幾らかどうかを尋ねたら、やはりばかばかしいほど高い値段だったので、バス停まで案内してもらってチップを払ってタクシーの運転手とは別れた。バス停には小さな待ち合い所があって、そこでチケットを買った。そこではUS$が使えなかったので、両替商に幾らか代えてもらい、Quetzalで払った。待ち合い所ではじめて他の観光客を一組見つけて少し安心した。おそらく英語が通じるだろうという期待があったからだと思う。

 バスはミニバスと言われる小さいものだった。私の荷物は大きかったので、バスの屋根の上に乗せられてしまった。途中で落ちてしまわないかと心配だった。椅子もふつうだったら2人がけかと思われるものが3人がけで、ぎゅーぎゅー詰めだった。私は大好きなアイスクリームを買ってバスに乗り込み、きついシートでちじこまってそれを食べていた。そのアイスクリームはコーンがいまいちだと思った。待ち合い所にいた白人のカップルは私たちの前の席に座った。話しかけてみたら、やはり英語が通じた。男性の方はカナダ人で女性はオーストラリア人。2人ともスペイン語は話せないそうだ。彼らも私たちと同じくHondurasのCopanに行こうとしていた。

 バスは10時に出発した。そこからの道は舗装されていない山道で、始終がたがた揺れていた。私は丹沢の奥地に行ったときのことを思いだした。途中なんども留まり、人が乗り降りした。時に山の途中の何もないところで人が降りたりしていたので、私は彼らはいったいどこに行くのだろうと疑問に思った。山の中には所々家があった。バスが通ると家の子供達が珍しそうに、ずっとこっちを見ていた。きっと山の中には何もないから、バスが来ることが一つの楽しみなのだろう。途中、少しひらけた町で休憩があり、そこでも食べ物売りが かごを持ってバスの中に入ってきた。父親がバスの外に出て写真をとっていた。それを地元の人たちは珍しそうに見ていた。標高がかなり下がってきたので、その時にはすでにGジャンはきていられなかった。暑いので出発前にまたアイスクリームを買って、バスの中で食べた。かなり揺れるバスにも慣れてしまったのか、疲れがたまっていたのか、いつのまにか2人とも眠ってしまい、国境に着いて前に座っていたカップルに起こされた。

 Hondurasとの国境の町 El Floridoは、家が3、4つしかなく、あとは畑や牧場があるだけの場所だった。国境には踏切のようなものがあるだけで、イミグレーションも小さな小屋で行われた。Honduras側には旅行者を待っているトラックのような車が2、3台あった。この国境を越えてHondurasuに行く旅行者はたいてい 私たちと同様Copanに向かっているので、車の運転手達はCopanという単語を連発して旅行者を誘っていた。私が持っているツアーガイドにはそこからCopanまでは、ピックアップバスがあるというように書いてあったので、私たちはそれで行こうと思っていた。でも、もしかしたらそのトラックのような車がピックアップバス なのかもしれないと思い、運転手に聞いてみた。運転手は「そうだ」と言い、私たちの荷物を持って、さっさと出発しようとしていた。またしてもあわただしく車に乗せられ、Copanに向かうことになった。はじめに値段の交渉をきちんとしないと危ないので、私たちは慣れないスペイン語の数字を一生懸命聞き取った。少々高かったが、早く着きたかったのでしかたがないと思いその車に決めた。車は小さいトラックのような形をしていて、座席は運転席と助手席しかない。地元の人たちが後ろの荷台に乗っていたのをバスの中から見ていたので、初めはそこでいいと言って、荷台に座った。しかし出発したら道はがたがたで、体が飛び跳ねて、今にも振り落とされそうだった。あわてて父親が運転手にストップの合図をして、2人で助手席に座ることにした。狭かったけれど、中の方が安心だった。Copanへは30分程度で着いた。

 着いたらまずはホテル探しである。ガイドに乗っていたCopanで一番良いホテル(HotelMarina Copan)を 最初に訪ねてみた。一番良いといっても値段はそれほど高くない。しかし、あいにく部屋はいっぱいで他のホテルを探さなければならなくなった。Copanの家がある部分は15分くらいでまわれるほど小さい町なので、当然ホテルも1カ所に集中していた。2軒目もやはりいっぱいで、3軒目にやっと部屋があいていた。ホテルというと何階にもわたるビルディングを想像するが、ここのホテルはどれも平屋で、一見ホテルのようには見えなかった。そのような様式はカリブ式のものだそうだ。私たちの泊まった部屋はダブルベッドが2つで、トイレ、ホットシャワー付きで、$30程度だった。

 ホテルの荷物を置いてひと休みをしてから、Copan Ruinasに行くことにした。Ruinasとは遺跡のことである。Copanにはいくつか遺跡が集まった場所があり、そのうちの一つは遺跡公園になって、きちんと管理されていた。その遺跡公園は町の中心から歩いて15分くらいのところにあった。1本道を歩いていくと、公園に着く前にもマヤの遺跡が所々にあった。遺跡公園の入り口には飲物やおみやげをを売っている子供たちがたくさんいた。その中のDanielという男の子がビーズと石でできたブレスレットとネックレスを売っていて、その子は少しだけ英語が話せたので、いろいろと話しかけてきた。「今は遺跡を見たいから」というと"Maybe later.I'm Daniel. Don't forget my name.Adios!"(もっと変な英語だった。)と手を振って別れた。彼の英語はスペイン語と混ざったものだったが、きっと観光客が来て話しているのを聞いて少しだけ覚えたのだろうと思った。"Maybe later"というのは他の子供たちも使っていた。

 遺跡は石を積み上げてできた建物や、石に王様の顔を彫ったものだった。父親は日が落ちないうちに早速写真を撮り始めた。写真を撮っている間私は暇だったので、一人でセルフタイマーを使って自分の写真を撮ったり、鹿を発見してその写真を撮ったりして時間をつぶしていた。もちろん私も遺跡を見てまわるのだが、私と父親の1つの遺跡にかける時間が違うので私が暇になってしまうのだ。父親は一つの遺跡に対していろいろな 角度から写真を撮るので、だいたい20分くらいかかった。そして閉館時間の5時まで写真を撮り続け、ホテルに戻った。

 飛行機の中ではほとんど眠れなく、さらに移動が続いた一日だったので、2人ともかなり疲れていて、ホテルに着いてベッドに寝ころんでいたらいつのまにか眠ってしまった。2時間くらいしてから目がさめて、食事にいくことにした。この日は一日中まともなものを食べていなかったので、なにか栄養のあるものを食べなければと私は思った。町の中を歩き回ってレストランを探したが、それらしきものが見あたらなかった。町の中心にある広場には屋台が一つあって、コーンでつくったパンのようなもの(インドのナンのようなもの)と、簡単なおかずを売っていたけれど、昼間もそれを食べたので夜はまともなものが食べたかった。広場は丸い形をしていて、なんかのお祭があるかのように旗のようなもので飾られていた。ラテンの国の町にはこのような広場が中心にあって、人々の憩いの場となっているらしい。レストランは町外れの暗いところに良さそうなものがあって、そこでスープとパエリアを食べた。スープと一緒にでてきたガーリックトーストもおいしかった。

 ホテルにもどる途中、最初に泊まろうとしていたホテルに行ってみた。そこには町の人々が集まっていて、パーティーを行っているような雰囲気だったので覗いてみたら、ホテルがみんなに飲物や食べ物を配っていた。私もクッキーをもらって満足そうに父親に見せた。きっと選挙かなにかのパーティーだろうと思い、中まで見に行ったら、実はお通夜だったのでびっくりしてホテルに戻った。日本のお通夜とは違って飾り付けなどが派手だったので、てっきりめでたいパーティーが行われていると思ったのだ。このように、この日は最初から最後まで新しいことだらけの1日だった。


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Written by Yuki Fukazawa
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Last revised on Dec. 23, 1995