サンタ・リタの遺跡から戻り、市場で簡単な昼飯を調達してそのままロイのボートに乗り込んだ。埠頭から見ると余り起伏のない平坦な対岸はほとんど密林で覆われているようであるが、その樹影の連なりの北のはずれがやや盛り上がって見える。それがこれから行くセロス遺跡である。
ロイのボートは、ファイバーグラス製の小さな釣船で、市場裏手の埠頭からコロサル湾を渡り切るまでに約40分程はかかった。遺跡に近ずくと、あのこんもりとした小高い樹影の塊が、大小幾つかのマヤのマウンドとしてはっきりと分離して見えてくる。そして、その岸辺の一画には、城砦を思わせるやや小ぶりの神殿がその裾を波に洗われている姿もあった。
上陸すると間もなく若い男がひとり木立の影から現われた。彼は、実は、ロイの弟だそうでこの遺跡の公認のガイドであるという。ボロボロになった額入の遺跡の写真をかかえており、それを見せながら、あの神殿の基檀からはこんなに立派な神のマスクが発見されたと、すぐ背後の神殿を指さした。それは遺構5と名付けられた構築物で、写真のマスクは、1970年代に行われた南メソディスト大学のデビッド・フリーデルらによる発掘の際に撮られたものだという。土中での長い眠りから覚めたばかりのその漆喰の浮き彫りはいかにも古風な雰囲気を漂わせていた。基檀のマスクは、調査後、風化を避けるために再度埋めなおされており、残念ながら、現在、その実物を眼にすることはできない。
遺構5を除けばセロスは、そのほとんどがマウンドの状態のままであった。これがマヤの遺跡だと知らなければ、それは日本の田舎であればどこででも見られる裏山の林である。私たちは、その林の中を思い思いに散策した。海から見ると樹影から一番そびえたって見えるのが遺構4で、その頂上付近にはわずかに神殿らしき構造物の跡が開かれていた。頂上からは紺碧のコロサル湾とその対岸が手に取るように一望できる。こうして見ると、セロスは、サン・エステバン、クエージョ、ラマナイなど内陸部に通じているニューリバー・ラグーンの河口にもあたり、往時、貿易の拠点としても重要な意味を持っていたことが容易に推察できる。
遺構4の南には、球技場跡であろうか、平行してわずかに盛り上がった一対のマウンドも見え、そこから南のジャングルを見渡すと今いるセロスの中心部が、周囲と比較してやや高台に位置していることがわかる。広場の東の草葉の陰には、小さな井戸の跡がひとつ見えた。ガイドによれば、そこからから約2キロばかり東に運河の跡も残っているという。しかし、その日は、サン・エステバンとクエージョも予定に入っており、運河はまた次の機会にゆずることとして、ひとまずセロスを達つことにした。潮のためか、帰りのボートは、やや早めに市場の埠頭についた。