遺跡は、首都ベリーズ・シティーの北約48キロ、カリブ海より9.5キロほど内陸に入った所にある。発掘は、デビッド・ペンダギャストの指揮の下、カナダのトロントにある王立オンタリオ博物館のプロジェクトとして1964年より1970年まで行われた。密林に覆われた遺跡を清掃することより始まった調査の結果、他のマヤ低地のセンターと同様に、巨大な神殿とそれを取り囲む小規模の祭祀構造物、そして住居からなることがわかった。少なく見積もっても500あまりの建造物が、およそ6平方キロにわたって広がっている。中心部分は祭祀空間を形成し、2つの大きな広場が5つの神殿によって取り囲まれている。神殿は、高いものになると20メートルを越える。神官=支配者の宮殿もあり、最盛期には8千人から1万人の人口を抱えたといわれている。
調査者は、遺跡を便宜的にアルファベットのAからNまでのグループに分けているが、中心的構造物はAとBの二つに集中している。グループAは、広場とその四方を囲む大きな建造物ならびに付随的な小建造物よりなる。グループBは、広場の東側に、アルトゥン・ハ最大のピラミッドB4を擁し、これに付随するエリートの宮殿よりなっている(B-1〜3,5,6)。こうした建物の大半は、年代的に古典期前期の終わり頃にはできあがっていたと考えられ、古典期後期にも、多少の改修の手が加えられながら利用されたと考えられる。
しかし一度にこれだけの建物が築かれたわけではなく、現在目にすることができるのは、その最終的な姿である。たとえば、グループAでいえば、A1が最も古く、次にA9、A3、A8の順に建てられていった。グループBとの仕切壁となっているA4が登場するのはずっと後のことであり、AとBの広場はつながっていた時期があったことがわかる。しかし、広場AとBとでは、常にBの方が低かったため、両者を結ぶ階段が存在したと考えられる。また後古典期に利用された証拠も若干は認められるが、建築の面で、新たに付け加えられたものは見つかっていない。
アルトゥン・ハ遺跡で特筆すべきことは、数多くの墓とそれに伴う豊富な副葬品である。とくに最大のピラミッドB4の頂上付近で発見されたB-4/7という墓からの副葬品には、高さ14.9センチ、重さ実に4.42キロもの翡翠の装飾品が含まれていた。太陽神キニチ・アハウの頭像と考えられ、年代はおよそ後600年頃と推定されている。
さらに興味深い翡翠の装飾品が、B-4/7の墓よりはやや新しい墓から出土している。この墓は、広場からピラミッドに登りかける最初の階段の下に埋もれていた。位置からすると、決して高位の神官にはふさわしくない場所だが、111点もの翡翠の装飾品、116点のウミギク貝製ビーズ玉のほか、土器や石器も出土している。中でも翡翠の飾り板は、重さこそ437.85gしかないが、縦20.2cm、横幅6.7cmの両面には細工が施されていた(図1)。表には、神官=支配者と思われる人物の座った姿が刻み込まれ、裏側には、マヤ文字が彫られていた。その人物の頭飾りには雨雲や水と関係した鳥の神が、玉座には太陽神キニチ・アハウの正面向きの顔が見られた。この飾り板には縁に穴があるので、衣服に固定したり、羽根飾りを差し込んだのだと推測されている。裏側のマヤ文字は、表の出来映えに比べると著しく劣り、判断がつかない文字もある。なんとか解読してみると、どうも「後569年5月4日、西から来た第二代チャク・パク王が征服した。後584年12月4日、アルトゥン・ハのアクバル王の継承が行われた。彼はレディー・スカイとカトゥンの子供であった。」ということが書かれているようだ。とすると飾り板の表に描かれていたのは、アクバル王なのだろうか。若い方の年代が、この飾り板の製作時期と考えると、墓の副葬品として納められるのは、それよりずっと後となるわけだ。調査者は、墓自体を後650年頃と考えている。
遺構解説