チチェン・イツァーは、ユカタン北部では最大のマヤ遺跡である。9世紀初頭から建設が 開始され、13世紀末には放棄されたと推定されている。マヤ遺跡とはいえ、この地方は その間二度にわたって外来人の侵入を受け、主権も交代している。一つはメキシコ高 原のトゥーラからやってきたトルテカ族の一派で10世紀末頃。もうひとつはタバスコ 方面からやってきたと推定されているイツァー族の一派で13世紀の中頃である。何故 か共にククルカンと呼ばれる指導者に率いられ、西方では主神格のケツァルコアトルに 象徴される文化を持ち込んでいる。その為にチチェン・イツァーの遺跡には、いわゆる マヤ的ものとメキシコ的なものとが互いに混じりあった形でその軌跡を留めている。 チチェン・イツァーの地名もそのひとつである。それはマヤ語で"イツァー族の泉の口" という意味であり、それがイツァー族の到来後に付けられたことは明らかである。それ 以前の地名については、"Uuc-hab-nal"(7-年-とうもろし)、あるいは"Uuchabnal"(七つの偉大な土地)であったとか、"itz" を中部マヤの方言で"呪術師"、"ha" を"水" と訳せば、"水の呪術師の泉の口"ということになるとか異論も多い。
現在、確認されているチチェン・イツァーは、南北3キロメートル、東西1.5キロメート ルにわたる広大な面積を占めており、その時代様式から三つに区分されている。マヤ古 典期後期(AD600-900)から後古典期前期(AD900-1200) にかけて存続したとみられる中央部と南のグループ、そして、それよりやや新しい北の グループである。
チチェン・イツァーで見る限り、マヤ的なものとトルテカ的なものとは、極めて異質 で対立した雰囲気をもっている。端的に言えば、マヤは平和的でトルテカは戦闘的であ る。換言すればハト派とタカ派の関係であり、あえて西欧風に言えばアポロ的なものと デオニソス的なものということにもなる。そして、その両者を象徴するのが雨の神チャ クであり、羽毛の蛇=ケツァルコアトル=ククルカンであることに気づいてくる。